田口かおりさんの連載「1966年11月4日、フィレンツェ――アルノ川大洪水の被害と復興の道のり」の第4回目をお届けします。著作権は田口さんにありますので、無断転載はお断りいたします。

目 次

はじめに 第1回「前夜―11月3日」第2回「あふれた川―11月4日」 第3回「天使の誕生―11月5日」 第4回「荒れ果てた聖堂、水浸しの作品群、涙―11月6日からの闘い」

荒れ果てた聖堂、水浸しの作品群、涙:11月6日からの闘い

この章も、また、ある人物の話からはじめていこう、ユダヤ系イタリア人、ルチアーノ・カメリーノ(40)は、フィレンツェを襲った洪水のニュースを、ローマにかまえた自身の店で知った。

第二次世界大戦中、ムッソリーニ支配下で半ユダヤ主義が広がるなか、カメリーノ氏は、ローマのゲシュタポ(秘密国家警察)によってアウシュヴィッツ強制収容所に送られた。彼は、一族のほぼ全員を戦争によって失っている。戦後、彼は、収監中に患った心臓病の治療を進めつつ、小さなレストランと典礼や祈祷用品を販売する店をはじめた。商売はまずまずうまくいっていた。カメリーノ氏は、ようやく訪れた穏やかな時を慈しむように、日々を過ごしていたのである。

しかし、11月4日、洪水の映像を目にした彼は、すぐさま身の回りや財産の整理をはじめ、その2日後には「全てをなげうって」フィレンツェへと向かったのである[1]。彼が目指したのは、フィレンツェの中心部、ファリーナ通りにあるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)であった。脳裏にあったのは、古くは15世紀にまでさかのぼる、教会所蔵の貴重な教典の数々だ。

11月6日の時点で、フィレンツェ各地の美術館、聖堂、礼拝堂には、文化財や美術作品、聖像を救出するための若者が集まりつつあったが、カメリーノ氏が作業を開始したこの日、シナゴーグに駆けつけた人はほとんどいなかったという。6日の夜半にフィレンツェに到着して以降、彼はほぼ不眠不休で働き続けた。各巻物は平均130から165メートルほどの長さがある。当然ながら、そのほぼすべてが泥水にまみれて膨れあがり、一部は千切れかけていた。カメリーノ氏は巻物を丁寧に拾い上げ、椅子や階段の高低差や長い廊下を利用して注意深く広げていった。ロバート・クラークは、カメリーノ氏の当時の様子を、後にこう物語る。「かつて強制収容所で労働を強いられていた時のように、カメリーノ氏は食事も休憩も喜びもなく黙々と働き続けた。ただ(1966年の)この時には、彼は言葉を、戒律を、予言を救っていたのである[2]」。彼がこの時に救い出した教典は、現在も大切に保存され一部公開されている。しかし、残念ながら、カメリーノ氏本人がこの日々について語ることはできなかった。作業をはじめてから3日後、ふと手を止めた彼はそのまま、心臓発作のためにこの世を去ってしまったからである。なにかに憑かれたかのようにあらん限りの教典を乾かし、救い出した人物の命が、こうしてひっそりと消えていった。

カメリーノ氏がフィレンツツェに到着し、教典を拾い上げていた頃、市内ではどのようなことが起きていたのだろうか。町は少しずつ、茫然自失の状態から、情報交換の段階へと移行しつつあった。6日の夕刻から7日にかけて、各美術館や保存修復関係者、著名な美術史家たちの動向が報道されはじめた。最初に伝えられたのは、美術史家ウンベルト・バルディーニと彼のチームの初動である。ただし、当時の報道文はシンプルかつ曖昧なもので、彼らが「人間の力の限界を超えた仕事に取り組んでいる」ことを伝えるにとどまっている。7日の新聞の見出しに目を通してみよう。『アルノ渓谷のダムの不具合か』など、大被害の原因を検証する記事にまじって、『サンタ・クローチェ聖堂の貴重なキリスト像が半壊』など、少しずつ美術作品の状態に関する情報が見受けられる。しかし、洪水から3日目にあって、フィレンツェの町には再生よりもまだ死のかおりが濃厚に漂っていた。つまるところ、人々の関心は、美術品の生死よりも生身の人間のそれへと集中していたのである(図1)

実際のところ、7日になってなお、死者数の報告は20名を超えて増えるばかりであり、泥に埋もれたままの遺体が目撃され、生死の確認がとれない市民も数多かった。ライフラインは復活しておらず、薬も食物も足りず、気温と体力の低下があいまって絶命する高齢者がではじめていた。通常の11月の夜であれば、市内に立ち並ぶホテルの窓からの光が、秋の夜道をほのあたたかく照らしだす。しかし、1966年の11月7日の時点でフィレンツェの80%以上のホテルとレストランは休業中であり、夜は長く深かった。フィレンツェはあらゆる意味で仮死状態にあったのである。

確かに、『サンタ・クローチェ聖堂の貴重なキリスト像が半壊』のニュースは、作品を心のよりどころのひとつとしていた市民たちに、そして世界中の美術史家や修復家たちに、大きな衝撃を与えた。とはいえ、市内在住のライターをはじめとする幾人かが「これほどまでに町がダメージを受け、人々が命を落とし、子供が泣き叫び、老人が凍えている時に、サンタ・クローチェのキリスト像が無事かどうかを気にしている場合なのだろうか」疑問を呈していたこともまた、事実である。少し後のことにはなるが、9日、町を見て回っていたバルジェッリーニ市長に何者かが「市長、あのぼろぼろのキリスト像は、一体これからどうなってしまうのでしょう」と話しかけたところ、市長はぴしゃりと答えている。「気の毒なキリスト像についての話はもうたくさんだよ。今私たちが考えるべきは、この町の気の毒なキリスト教徒のことなんだからね」

とはいえ、汚泥にまみれた文化財を救い出すためのプロジェクトは、確実に活発化しはじめていた。7日の夜半、ウーゴ・プロカッチとウンベルト・バルディーニが中心となり、ウフィツィ美術館に文化財レスキューのために各地から集合してきたボランティア−−「泥の天使たち(angeli del fango)」のための対策本部が設立されている。目下の任務は、作品の救急手当のために集まった人々の割り振り、そして、被害状況の確認であった。作業の内容や難易度、必要人数、損壊度などから判断し、市内の美術館や各種施設、教会などに次々と人々が送られてゆく。浸水が著しい施設から一次避難させる必要のある作品群には、ひとまず、市内からかきあつめられたトラックの荷台に積みこまれ、ダヴァンツァーティ邸をはじめとする一次避難所に運び込まれていった。当時の記録写真には、素材も大きさも様々な文化財が、人々の手を介し屋外へと持ち出される様子や、車上に並ぶ様子が映っている(図2)

写真家のデイヴィッド・リーの一枚は、6日、シニョーリア広場を作品が通過していくその瞬間を捉えている(図3)

ウーゴ・プロカッチは、国立図書館館長のエマヌエレ・カザマッスィマとその弟子たちの力を借り、被災した作品の数を確認しはじめていた。6000枚もの写本や楽譜、321枚の板絵、413枚のカンヴァス画、81枚のフレスコ画の被害が報告されつつあった。

「何かをしなくてはならない」という使命感に突き動かされるようにして集まってきた「泥の天使たち(angeli del fango)」は、一見、そのほとんどが若い学生たちのようであったが、日が経つにつれ多くの専門家たちが加わり、プロフェッショナルな働きをみせるようになっていった。当時の名簿を紐とけば、後にフィレンツェの、そしてイタリアの保存修復界を担うことになる若き研究者や修復家たちが名を連ねていることがわかる。そこには、後に美術史家として優れた功績を残すブルーノ・サンティがおり、フィレンツェ文化財保護監督局長として活躍することになるクリスティーナ・アチディーニがおり、多くの弟子を育てた修復家のマルコ・グラッスィやエド・マンスィーニがいた。しかし、バルディーニやプロカッチが涙を流しつつ壁から取り外したサンタ・クローチェ聖堂のチマブーエ《十字架降下》をはじめ、一体どのような処置が正しいのか、最終決定が下されないままに議論が続いていた作品も多くあった。

1966年11月8日。チマブーエ《十字架降下》と同じく聖堂内で被災したジョルジョ・ヴァザーリ《最後の晩餐》をはじめ、幾つかの作品に部分的な表面保護処置(velinatura)が行われはじめている。表面保護が状況を改善してくれるわけではないが、少なくともそれ以上に悪化することがないような応急処置が急務であった。使用されたのは、和紙と合成樹脂パラロイドである(図4)

表層に小さく切った和紙をあて、指で押さえながら、刷毛に浸したパラロイドを塗っていく。まもなくストックの和紙が底をつくと、バルディーニとプロカッチはフィレンツェを越え、ボローニャやピサなどの近郊の街と、そしてイタリア全土の美術館や関係施設と連携をはかり、和紙を送ってくれるよう要請を繰り返した。しかしそれも足りなくなると、彼らは家庭用のティッシュペーパーを代用してこの作業にあたることを余儀なくされた(図5)

脚注

[1] Clark, Robert. Dark Water, pp. 175-176.

[2] Ibid.

図版