前回の記事から少し時間があきましたが、田口かおりさんの連載「1966年11月4日、フィレンツェ――アルノ川大洪水の被害と復興の道のり」の第5回目をお届けします。著作権は田口さんにありますので、無断転載はお断りいたします。

目 次

  • はじめに
  • 第1回「前夜―11月3日」
  • 第2回「あふれた川―11月4日」
  • 第3回「天使の誕生―11月5日」
  • 第4回「荒れ果てた聖堂、水浸しの作品群、涙―11月6日からの闘い」
  • 第5回「修復家たちの奮闘[1]:ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチ(前編)」

5 修復家たちの奮闘[1]:ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチ(前編)

(図版1)

「フィレンツェという町は、ずっと洪水と共に生きている。それを、私たちは時々、忘れてしまうんです」

1996年、ウンベルト・バルディーニは、『フィレンツェ・アート・ニュース』の記者サンドロ・ピントゥスからのインタビューに静かな語り口で答えた。

「フィレンツェ中心部は、100年ごとに大きな洪水に襲われています。19世紀半ばにも市街の大部分が壊滅しました。大きな洪水としては、1333年と16世紀中頃のものがありますが、1966年のそれは、過去のいずれの洪水をも超える規模でした。フィレンツェ市民は、洪水に慣れ、洪水と共に生きなくてはならない、と、私は考えています。でも、こういった過去の記憶というのは、しばしば失われてしまう。一定の時間が経過すると、忘れてしまうんです。今の若者は、1966年に何が起こったのかを知りません。大切なのは、人々の意識のなかに過去の出来事を刻み残し続けることです。洪水が発生したときに起きた大惨事(カタストロフ)の原因は、人々の準備不足にありました。私たちは、『洪水』がどんなものであるのかを、忘れていたんです[1]

バルディーニという人は、「常にどこかを移動している」「とにかく仕事を常に抱えていて、なかなかつかまらない」と周囲がこぼすほどに多忙な男性であったが、このインタビューが行われた前年の1995年にはとりわけ精力的な活躍ぶりをみせ、新聞紙上をたびたび賑わせていた。長らく書き進めていた『フィレンツェ大聖堂と洗礼堂』を上梓したほか、芸術と保存修復分野に残した偉大な功績を讃えられ、文化芸術金賞を授賞したのも、95年であった。

そして、1996年。冒頭のインタビューが行われた年が、アルノ川洪水をめぐる研究において重要なのは、洪水がフィレンツェに何を与え何を奪い去ったかについて、あるいは文化財レスキューの未来について、バルディーニがまとまった量の取材に応じ、公の場で語る場を多く設けた最後の年でもあるからである。10年後の節目の年である2006年には、バルディーニはもう同様の機会をもちえなかった。何故なら、フィレンツェが生んだこの偉大な美術史家は、夏の日射しが強く照りつける8月16日に、世を去ることになるからだ。

しかしそれはまだしばらく先の話である。洪水から40年の節目に、バルディーニはフィレンツェのそこかしこへ出向き、1966年11月の悲劇と、フィレンツェ市が辿ってきた復興の道程を語っていた。

洪水を乗り越え、失われ損なわれた貴重な文化財を修復し、芸術都市フィレンツェとして誇り高く輝き続けること−−−−洪水直後から、フィレンツェで美術や歴史に携る職に就いていた人々はもちろん、住民ひとりひとりがこの目標を旨に、情熱的に文化財レスキューに励んできた。とはいえ、何十年という年月が積み重ねられるにつれ、次第に洪水の残した爪痕は日常生活のなかで目立たなくなり、失われた証言や徐々に忘れさられていった記憶や多い。しかし、どれだけ時間が経ったとしても、あの過酷な日々のなかで文化財レスキューの立役者となったフィレンツェの「偉人」たちへ向けられる敬愛と感謝の眼差しは変わらなかった。

いちはやく収蔵書物のレスキューを開始し、夜を徹して作業を行い、状況を悠長にも見学にやってきた政府高官に対して「すみませんが、事態は急を要するのです。状況をご説明している暇はありません。お願いですから、私たちに仕事をさせてください」と毅然と言い放った国立図書館館長のエマヌエーレ・カサマッシマ。損傷した作品の数と状態を把握し、すぐさま保管庫を設け、行政との連携をとった美術史家ウーゴ・プロカッチ。そして、プロカッチの良き友人であり、国立輝石修復研究所の代表としてフィレンツェ修復界を牽引していく美術史家ウンベルト・バルディーニ。三人の声に、人々は常に注意深く耳を傾けてきた。彼らが常に主張してきたことがある。それは「思い出し続ける」行為の重要さであった。実際、1996年のインタビューでも、バルディーニは、洪水の記憶を薄れさせてはいけない、と繰り返している。

サンドロ・ピントゥス:「1966年以降、洪水から文化財を守るために、どのような方策をとっていらっしゃいましたか?」

ウンベルト・バルディーニ:「もう二度と作品が水によって押し流されるような事態が発生しないように、それまで地上階に展示されていた作品は可能な限り上の階へと移動しました。こうした対策が不可能な作品の場合には、保護のための特殊な設備を配しています。とはいえ、アルノ川自体に関していえば、土手を少し高くしたくらいで、当時から大きな変化があったとは思えませんね。……とにかく大切なのは、あの時何が起きたのかを示すことです。そして、人間の身に何が起きうるのかを、しっかり見据えること。フィレンツェが抱えている問題は、慢性的な交通渋滞だけではない、そこには『洪水』というものがあるのです。水を吸収し衝撃を柔らげてくれる森林がない今、もし1966年レベルの洪水が発生すれば、水は前回到達した高さから2メートル上まで襲ってくるでしょう[2]

どれほど貴重な文化財が失われ、どれほど大きな衝撃を受けたとしても、徐々に私たちは−−−良くも悪くも−−−その状態に慣れていくものなのだ、とバルディーニは言う。バルディーニがこうしてある種の「忘却」に想いを馳せるのは、あの日から3ヶ月、1年と時が過ぎるにつれ、文化財レスキューのために駆けつけたボランティア、通称「泥の天使達」の緊迫感が薄れ、やがて櫛の歯が抜けるように帰国していった状況を見ていたからかもしれない。

(図版2)

大洪水から1週間後の1966年11月11日金曜日に、再び舞い戻ってみよう。国立図書館では、今日も「天使」が泥から紙資料を引っ張りあげ、一葉一葉を洗浄し、駅のボイラー・ハウスに設けられた臨時作業台の上で資料を乾かし閉じなおす作業にあたっていた。世界中から集結した「天使」の数は、優に1000人を超えていた。いまだ宿泊施設のガスや水道は完全には機能していなかったが、フィレンツェ市街のB&Bやドミトリーは、押し寄せた「天使」で満室であった。彼らは朝目覚めると簡単な朝食を取り、図書館へ向かい、せっせと夕刻まで作業にあたった[3]。ただしそこには、1週間前の張りつめた緊張感はもう見受けられない。誰かが持ち込んだトランジスタ・ラジオからは、ビーチ・ボーイズの曲が流れていた。彼らは作業の合間に歌い、煙草を吸って、こまめに休憩をとっては冗談を言い合い、笑いながら軽食をとった。11月のフィレンツェはすでに冷え込みが厳しい。身体や口を動かし、軽快な音楽で精神を高揚させないことには、震えがとまらないほど寒かったのである

ウフィツィ美術館の資料庫でも、同様の作業が行われていた。美術を専攻する学生であったシルヴィア・メローニは、ある泥まみれの作品を丁寧に拭っていた。半分ほど泥をよけたところで、「まさか」と、メローニの手が一瞬止まった。思い違いではないか、と自問しながらも手を動かし続けた彼女は、最後に泥の下から表れた画面を見て、ぽつりと呟いた「これ、ベラスケスの肖像画だわ!」−−−そのとおりであった。

確かに、洪水直後の悲壮感は薄れつつあった。しかし、洪水を題材にしたノンフィクション『暗い水』を書いたロバート・クラークも語るように、こうしたささやかで偉大な「発掘作業」は起こり続け、奇跡の瞬間は絶え間なく訪れ続けた[4]

この日、アメリカから文化財レスキューのためフィレンツェにやってきていたルネサンス美術の専門家フレデリック・ハートは、立ち働く若者たちを見回しながら、「人類の文化史上において、特別な位置を占めているかけがえのない町がふたつある。ひとつがアテネ、もうひとつがフィレンツェだ」と、かつて自著内で述べた見解を力強く繰り返した[5]。「だから、このふたつの町のうちどちらかひとつに何かが起きた時、文明人である私たちには、そこへ救いの手を差し伸べなければいけないという道徳的な義務があるんだよ」

ハートもまた、洪水をめぐる一連の動きのなかで重要な役割を果たす人物である。彼は、洪水後の保存修復を祖国アメリカからサポートした。11月4日の惨事を耳にした瞬間から、ハートは、フィレンツェに今一番必要な「救いの手」が具体的に何を意味するのかを精確に理解していたし、また、それを与えることの出来る力を持っていた。第一に修復のエキスパートたち、第二に資金である。彼は、ブラウン大学のフレッド・リクトに続きイタリアのウーゴ・プロカッチと連携をとると、保存修復分野の権威ローレンス・マイェフスキ教授(当時、教授はハーバード大学率いる「古代ギリシア都市サラディス調査発掘団」の主任修復家であった)をチーフとする16人の修復家たちをフィレンツェに派遣した。さらに、アメリカの各大学施設とイタリアのヴィラ・イタッティ(ハーバード大学附属ルネサンス美術研究センター)の研究者を中核とする「CRIA—イタリア美術修復委員会(Committee to Rescue Italian Art)」を設立し、被災した美術作品のレスキューと保存修復を長期的に支援する体制をつくっている。

ハートの力を借り国際的な支援体制を整えるのと並行して、プロカッチは被災した文化財を一時的に収蔵し、集中的な処置をほどこすための大きな「病院」を整えようとしていた。条件は幾つかある。まず、十分なスペースがあること。そして、作品をスムーズに移動することが可能なアクセスの良い市内であること。照明設備がしっかりとしていて部屋が明るく、作業がしやすい環境であること。そして文化財を「入院」させるのにふさわしい場所であること−−−。選ばれたのは、ピッティ宮殿のボーボリ庭園内に位置するリモナイア(Limonaia)であった。(図版3)

リモナイアは文字通り、檸檬(Limone)等の柑橘類用を冬季の間栽培するための温室である。メディチ家にかわってフィレンツェの覇権を握ったロレーナのピエトロ・レオポルドが、1777年〜78年頃にリモナイアを建築した当時、彼の地は世にも珍しい柑橘類のコレクションを誇っていた。ほぼ2世紀を経た今、プロカッチは、その歴史ある建物の中に、たわわに実る檸檬にかわってフィレンツェが生み出してきた芸術の果実をおさめようとしていた。ただし、プロカッチとしては、すぐさま被災作品のすべてをリモナイアに運ぶつもりはなかった。町全体が傷つき疲弊している今、美術館や聖堂から彼らの誇る作品までもをごっそり運び出してしまっては、市民にとってあまりに酷であろうと考えたからである。

「フィレンツェの人々には、クリスマスの贈り物が必要だと思うんだ」とプロカッチは、バルディーニらに自らの考えを打ち明けた。「12月までに可能な限り市内の美術館内の掃除と整頓を進めよう。そして、一時的にでも部分的でもいい、美術館を開館しよう。一目でも、皆に洪水以前の生活を、美術に溢れた日々を味わってもらえるように。そして、その日を良い区切りにして、例の( ・・)あれ(・・)をリモナイアに運ぶというのはどうだろう」

例のあれ、とは、他でもない、サンタ・クローチェ聖堂のチマブーエ《十字架降下》である。《十字架降下》は洪水から2日後の11月6日、青ざめるバルディーニやプロカッチの見守るなかで物理的に地平に「降下」され、仰向けにされて、修道院の食堂内に置かれていた。リモナイアに輸送されるまでの4週間、多くの人々が聖堂に脚を向け、傷つきぼろぼろになったキリスト像を悼んだ。しかしいつまでもここに置いておくわけにはいかない。《十字架降下》は、落ち着いて修復家たちが調査や作業に従事できるような、より安定した場所へと移動する必要があった。

12月2日。いよいよリモナイアに《十字架降下》が輸送される日がやってきた。20人の作業者が力を合わせて作品を聖堂から運び出し、輸送用トラックに載せ、慎重に固定した。時速24キロを決して超えないよう指示されていたドライバーは、サン・ニコロ橋をわたってアルノ川を超え、広場を通過し、緩やかな山道を登ってリモナイアに向かった。道ゆく市民のうちの幾人かは、大きなトラックの積み荷の中身を一目で理解した。ドライバーは、道ばたで跪き、胸元で十字を切る人々を目撃したという[6]

(図版4)

リモナイアでは、ウーゴ・プロカッチと修復家のエド・マンスィーニが白衣に身を包んで《十字架降下》の到着を待っていた。《十字架降下》の輸送が決定されて以降、CRIAからの金銭的な援助を受けたプロカッチとバルディーニは、施設を「檸檬」用から「重症の芸術作品患者」用の仕様へ変えるべく、リフォームを試みていた[7]。準備にあたり、数週間にわたって空調を継続的に稼働させた結果、柑橘類は乾燥しきって、ほぼ全滅したという。だが、いくら除湿を試みたところで、本来温室として使用されていた建物はいかんせん温度も温度も高すぎた。実のところ、安定しない温室度のために、リモナイアに運ばれた作品は少なからずダメージを被ってしまった。アクリル系樹脂パラロイドB-72の硬化は過剰に速められた結果、絵画の亀裂は広がり、大量のかびが発生するのだ。しかし、この結末が明らかになるのはまだもう少し先のことである。

(図版5)

さて、トラックから降ろされた《十字架降下》はリモナイア内部に静かに運び込まれ、まず、かびの発生を防ぐため、抗真菌剤のナイスタチンを全体に塗布された。続いて、作品サイズと重量、そして水分含有量の計測が行われた。洪水前の通常時、平均で18%程度であった数値は、今や147%まで上昇していた。重量は倍の値を指しており、全長は最大7.62cmも伸びている。プロカッチらは《十字架降下》のために特別な「ICU(集中治療室)」を用意していた。修復主任のオフィスの目の前に設えたガラス張りの部屋である。リモナイアに出入りする者は誰でも、ガラス越しに《十字架降下》と対面できた。

作品が搬入されてすぐ、開始すべき処置をめぐって、修復家と美術史家たちの議論がはじまった。しかしバルディーニは確固とした見解をもっていた。ともあれ、作品の水分含有量が減少し、絶え間ない変形がとまり、落ち着きをみせるまで−−つまりこの「患者のバイタル」が安定するまでは−−大掛かりな処置はしない、と、彼は宣言する。彩色層の剥離止めという大事業と、特殊な技法を用いた補彩が開始されたのは1968年のことであり、それまでの間、《十字架降下》は透明な病室のなかで細かな収縮を繰り返しながらじっと待機を続けていた。

当時の《十字架降下》に直接触れていた「天使」がいる。イングランドからやってきていた学生、ジョン・スコフィールドである。彼は、印象派の画家ウオルター・エルマー・スコフィールドの孫であり、祖国では名の知られた芸術一家に生まれ育った人物であった。ひょんなことからリモナイアへの出入りを許されたスコフィールドは、たどたどしいイタリア語で苦労してコミュニケーションを取りながら(バルディーニをはじめ、当時のリモナイアに集合していた美術史家や修復家の多くは、英語が得意ではなかった)、言われるがままに《十字架降下》の背面にたまった泥をかきだし、一面に生えた黒、赤、ピンクのかびを除去し、防かび材を注射器や筆を用いて注入する作業に従事した。持ち前の粘り強さを発揮して、黙々と作品に触れるうち、スコフィールドは幾つかの事柄に気づいた。一番大きい問題は、かびの除去作業があまり効率的に進行していない現状であった。《十字架降下》の支持体に取り付けられたウオール・マウント用の鋼鉄は、支持体の背面の大半を覆い隠してしまっており、注射針や筆先が届かない箇所が多くある。また、黒かびにかんしていえば、繁殖力があまりに強く、この方法ではいくら塗布しても12時間後には元通りになってしまう。さらに作品が現在置かれている環境自体にも、少なからず問題があった。《十字架降下》がおさめられている「ICU」には、各国の美術関係者や報道陣がひっきりなしに出入りした。ばたばたと扉が開け閉めされるたびに、バルディーニがいうところの「作品のバイタル」が大きく乱れることにスコフィールドは気づいた。リモナイアで働き始めて1週間後、彼は、亀裂が前に比べて大きくなり伸びていることを発見し、愕然とする。

しかしながら、当時のバルディーニとプロカッチは、12月末までにフィレンツェ市内で重度に被災した作品すべてをリモナイアに搬送するための段取りを整えるべく、非常に忙しく各所を駆け回っており、スコフィールドが自分の発見を直接伝える機会はなかなか訪れなかった[8]。ある日の夕刻、リモナイアに仮収蔵された作品の「回診」にやってきたバルディーニをようやくつかまえたスコフィールドは、現在の環境が作品に大きなストレスを与えていること、その結果実際に作品の状態が悪化していること、防かび材の塗布方法が有効とは思えないことなどを必死で伝えた。スコフィールドがここで新たに提案したのは、薬局で売っているバルブ型の香水瓶(アトマイザー)を用いて、気化した薬剤を手の届かない箇所に吹き付けるという方法だった。

バルディーニは饒舌な男性ではなく、静かに穏やかに人の眼をみて話を聞くタイプの人であったという。スコフィールドの必死の主張に耳を傾けると、この物静かな美術史家は、君の考えた方法で防かび材を塗布してみてほしいと言った。さらに、《十字架降下》用作業室の出入り口扉にはポリエチレンのシートを吊り下げ、人の出入りの際に高価上昇する温度や湿度を最低限に抑える工夫を施すよう、リモナイアの職員に指示を出した。

バルディーニは自分の意見に耳を傾けてくれた、と、スコフィールドは、当時共に作業をしていた同世代の美術史家ブルーノ・サンティに報告している。

「バルディーニやプロカッチは、十字架を最終的にどうするつもりなんだろう?」スコフィールドはふとサンティに尋ねてみた。キリストの顔は無惨にも大部分が失われてしまっている。顔だけではもちろんなく、手足も、背景も、すべてが壊滅的で、とても元通りには戻せないように思われた。というよりも、ここまで損なわれてしまったものを洪水以前の状態に戻す選択が正しいのか否か、確信がもてなかった。自分が帰国した後、気の毒なキリストはどんな運命を辿るのだろう、と、スコフィールドは繰り返し想像しただろう。

「おそらく、欠損は白色の充填剤で埋めるんじゃないかな。そして作品をプレキシガラスで表裏からはさみこむようにして固定して、ガラスの上に、洪水以前の欠損部分をステンシルで再現して刷るんじゃないだろうか」とサンティは答えた。

「僕が思うには」スコフィールドは言った。「そんなの、何もしないでおくよりもよっぽど酷い処置なんじゃないかな」

バルディーニが《十字架降下》にどのような補彩を施そうとしているのか、明確に知っている人間は、まだ当時、誰もいなかっただろう。おそらくプロカッチでさえ聞き出すことができずにいたし、もしかしたらバルディーニ自身ですら、答えには辿りついていなかったかもしれない。実際のところ、《十字架降下》に補彩を行った修復家オルネッラ・カザッツァがリモナイアで作業を開始するのは、1969年からである。ただし、バルディーニの念頭には、ローマの国立中央修復研究所を牽引していた近代保存修復学の祖チェーザレ・ブランディが広範囲にわたる欠損に施していた線描技法(トラテッジョ)(Torateggio)や、中間色(ネウトロ)(Neutro)が確かにあったはずである。(図版6)ローマの国立修復研究所とフィレンツェの国立輝石修復研究所は—というよりも、ブランディとプロカッチは−−修復の在り方や補彩の理想について異なった見解をもっていたが、表だって激しくぶつかることはなく、無言の不可侵条約のようなものを結んでいたようにみえる。

プロカッチは、バルディーニがブランディの線描技法(トラテッジョ)をそのまま採用はしないだろうと予想していたと思われる。未曾有の災害にあって、恐ろしいダメージを受けたフィレンツェの文化財群を、既存の方法論と技法で修復するなど、不可能である。そこには新たな発想が、新たな修復のメソッドと理念が求められていた。ただし、プロカッチは、バルディーニに結論を出すのに十分なだけの時間を与えるつもりであったろう。いずれにせよ、《十字架降下》に関していえば、水分含有量が下がり安定するまでに長い時間が必要とされる。また、他にも対応を急かされている頭の痛い問題が山積みであった。

プロカッチは、資金繰りや、ひいては保存修復の方針や主導権をめぐる政治的なパワーバランスについても気を配らなくてはならなかった。資金を援助し、海外から優秀な修復家のチームを送りこんでくれたCRIAとの関係性をいかに保ち、発展させ、時に必要な距離をはかるべきか、その算段もプロカッチの役割であった。CRIAは資金を有効に活用すべく、「要修復作品」のリストを作成していたが、当然フィレンツェ中のすべての被災文化財がリストに載っているわけではなく、リストからこぼれたばかりに修復の目処がたたなくなった貴重な作品が目立ちはじめている事態を、彼は憂慮していた。また、1月、2月とさらに冷え込みが厳しくなるにつれ、リモナイアの労働環境は悪化し、皆が酷い風邪をひきこみ、それが伝染病のごとく流行した。厳しい懐事情から、給与体制が悪化していっている状況にも不満の声が上がっている。給与は大概、次の月の20日になるまで支払われなかったし、修復家としてトレーニングを積んだ人材であっても、作業の時給は1100リラ(1ドル75セント)であった。こういった状況をいとわず情熱をもって献身的に作業に従事したのは、当時まだ若かった20代の修復家や美術史家たちであった。そして彼らがこの後のフィレンツェの修復界を支える屋台骨となっていくことになる。

ともあれ、こうした現実的な問題については、どちらかといえばプロカッチが処理し、バルディーニはあるべき修復の方向性に静かに思いを巡らせていたようである。両者はともに優秀な美術史家であり、信頼と友情で結ばれた同士であり、復興の道をともに歩む戦友であったが、実のところタイプのまったく異なる二人であった。二人の間には、言葉を交わさずとも諒解された役割分担があった。

(図版7)

1968年、1月。《十字架降下》の水分含有量はようやく25%にまで下がった。リモナイアに運び込まれてからほぼ1年をかけて、半分の値になったのである。

「そろそろだ」とバルディーニは考えた。「そろそろ仕事に取りかかっていい時期だろう」

ようやく、《十字架降下》への本格的な介入がはじまろうとしていた。

図版

 

脚注

[1] Pintus, Sandro. Intervista a Umberto Baldini, Firenze Art News, 1996.

[2] Ibid.

[3] 当時集まった若者たちの数の多さはフィレンツェの美術関係者の予想を大きく上回っていた。皮肉にも、フィレンツェの文化財レスキューを進めるにあたり「あまりにも人が集まりすぎ」、そのためにトラブルが引き起こされていたのもまた事実である。市長のバルジェッリーニ氏は、被災文化財レスキューのボランティアが1000人を超えた時点で「こんなに大勢、子供たちばかり……一体どうしろというんだ」と思わず口にしている。Clark, Robert. Dark Water, New York: Random House, 2009, p. 196.

[4] Clark,Op.cit.

[5] Hartt, Frederick. “Art and Freedom in Quattrocento Florence,” in Essays in Memory of Karl Lehmann, ed. L. Freeman Sandler, New York: Locust Valley, 1964, pp. 120, 123, 127 and 130.

[6] Clark, Op.cit., p. 210.

[7] CRIAはパブロ・ピカソの絵画作品などをニューヨークで開催されたオークションに出品し、獲得した11万ドルをすべてフィレンツェに送金している。

[8] 1966年12月18日までに、彼らは計画通り、深刻な損傷が認められた作品すべてをリモナイアに運び込んだ。