田口かおりさんの連載「1966年11月4日、フィレンツェ――アルノ川大洪水の被害と復興の道のり」の第6回目をお届けします。前回に続き、修復家たちの粘り強い取り組みが綴られます。著作権は田口さんにありますので、無断転載はお断りいたします。

目 次

  • はじめに
  • 第1回「前夜―11月3日」
  • 第2回「あふれた川―11月4日」
  • 第3回「天使の誕生―11月5日」
  • 第4回「荒れ果てた聖堂、水浸しの作品群、涙―11月6日からの闘い」
  • 第5回「修復家たちの奮闘[1]:ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチ(前編)」
  • 第6回「修復家たちの奮闘[2]:ウンベルト・バルディーニとヴィットリオ・グランキ」

6 修復家たちの奮闘[2]:ウンベルト・バルディーニとヴィットリオ・グランキ

(前編—支持体移動(トラスポルト)と「フィレンツェは修復する」展)

1968年6月。1月に計測した《十字架降下》の水分含有量は、25%からさらに下降しつつあった。作品がリモナイアに輸送されてから1年半が経過し、水を吸って膨張していた木材が徐々に収縮していった結果、十字架の全長は3cm弱ほど、短くなっていた。新年を迎えてから、ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチは《十字架降下》をリモナイアから、より設備の整った新施設フォルテッツァ・ダ・バッソ(元要塞)に輸送する準備にいそしんでいた。フォルテッツァ・ダ・バッソの内部の湿度はリモナイアと同程度に調節されたが、温度に関してはリモナイアより若干高めに整えられた。

1968年に実施された《十字架降下》調査の結果、明らかになったのは、1966年の時点では想定されていなかった事態であった。作品の乾燥のスピードがあまりにも速すぎたために、木材に入った細かな亀裂が、その上の彩色層を大きく動かし、無数の亀裂を生み出していたのである。木の支持体にかろうじてしがみつくように接着している下地の上で、彩色層は、和紙を用いた緊急の剥落留めにより、そっとおさえられている状態であった。木が上下左右にと伸縮を繰り返すたび、彩色層もまた、和紙の下で割れては浮き上がり、重なり合ってはまた割れるという複雑な動きをみせ、脆く崩れていった。それはあたかも、北の海でとめどなく形を変える「流氷」のようであったと、ロバート・クラークは語る[1]

バルディーニを含めて誰も、作品の「バイタル」の安定を願って作品に与えた2年半あまりの時間が、緩やかな乾燥と事態の沈静化をもたらすどころか、彩色層の剥離をここまで悪化させる結末に繋がるとは、予想もしていなかった。しかし、実際のところ、このまま和紙を用いた臨時の剥落留めを続行したところで、状況が好転するようには見えない。バルディーニは、彩色層を支持体からそっと剥がし、新たな支持体の上に移動する処置―「支持体移動(トラスポルト)」の実行を決断する。

《十字架降下》は、木の支持体上に直接描かれているわけではなく、木の上に張りこまれたカンヴァス上に描かれている作品である。だからといってカンヴァスを木からするりとシンプルに剥がしてしまえるかといえば、そうシンプルに事は運ばない。第一に、カンヴァスは一枚布ではなく、パッチワーク状に縫い合わされてできている。何カ所にも及ぶ縫い目部分は経年のために擦れて脆弱になっており、支持体移動(トラスポルト)に耐えうるかどうかは大きな賭けであった。両腕やキリストの周囲部分は既に縫い目がほつれ、めくりあがり、キリスト胴体部が描かれた大きなカンヴァスから分離して、離れ小島のように散在している。こうした箇所については、個別に、より慎重に支持体から剥がす必要があった。

第二に、洪水の際にカンヴァスに染み込んだ水が、チマブーエが制作時に用いた膠を溶かしてゆるませており、彩色層全体を脆くしているという問題があった。いくら和紙により表面が保護されているとはいえ、支持体移動(トラスポルト)の振動はさらなる悲劇を引き起こす可能性があった。

作品をさらに傷つけないよう細心の注意をはらいながらカンヴァス全体を十字架から剥がすという、この一大作業の責任者に指名されたのは、バルディーニの厚い信頼を得ていた画家兼修復士のヴィットリオ・グランキ(当時60)であった。(図1)

1968年10月、グランキは、本来の支持体である木の十字架とその上に貼られたカンヴァスの間に、注射器を用いて中性の溶剤を少量ずつ注入し、薄いスパチュラを用いて、この二つを時間をかけて引き離していった。(図2)

1ヶ月という時間をかけ、グランキはこの仕事を終えたが、その当時のことをほとんど覚えていないという。あまりにも集中しすぎていたため、グランキは自分がいつ眠り、いつ起きて作業をし、いつ食べていたのかすら、思い出せない程であった。ともあれ、彩色層を揺れ動く支持体からひとまず無事に救い出した仕事ぶりは、当時のフィレンツェ文化財—美術館特別監督局のレンツォ・キアレッリをして「グランキのキャリアにおいて最も輝かしい」と言わしめ、現在のフィレンツェ国立輝石修復研究所所長のマルコ・チャッティに「修復史におけるコペルニクス的転回」と賛美されるほど精緻かつ大胆なものであった[2]

こうして支持体移動(トラスポルト)が無事終了した《十字架降下》について、バルディーニがどのような処置を施そうとしているのか、フィレンツェを超え世界中で噂が飛び交いつつあった。最低限の処置を施すのみで、無惨に全身が引き裂かれたキリストを聖堂に戻すのか。それとも優れた修復士を雇い、洪水前と見紛うばかりに美しく「整形」するのか。バルディーニはなかなか考えを明かそうとせず、その沈黙を尊重するかのように、彼の片腕である修復士エド・マンスィーニは、グランキが剥がした彩色層の洗浄と補強を進めていた。今やカンヴァスから切り離された支持体の木材を時間をかけて完全に乾かす作業も並行して行われつつあり、フォルテッツァ・ダ・バッソ内の人員もまた、作業内容に合わせ、少しずつ変化し、部門によっては増えはじめていた。新たに作業チームに加わった年若い女性修復士たち、オルネッラ・カザッツァとパオラ・ブラッコもまた、目覚ましい活躍をみせていた。彼女たちはエド・マンスィーニの補佐役として、アレッサンドロ・アッローリ《十字架降下》をはじめとする作品群の支持体移動(トラスポルト)や補彩に励んでいた。70年代に入るまでに、相当数の被災文化財の光学調査が進められ、損傷箇所が比較的少なかった幾つかの作品については、修復作業が完全に終了していた。

こうした成果を受けて、1972年3月18日、バルディーニは、修復を終えた作品群を市民に公開し、修復作業の進捗状況を報告するとともに、芸術都市フィレンツェの再興を宣言するための展覧会「フィレンツェは修復する(Firenze Restaura)」展を開催する。展覧会は、数回にわたる介入の痕跡を彩色層上に残した特殊な作品、マエストロデッラ・マッダレーナ《聖母子像》(図3)からはじまり、彩色層を失った剥き出しの木材と化した《十字架降下》で終了する構成となっていた。

人々はキリストが不在の木の十字架を見上げ、チマブーエが700年前、同じように十字架を前にしていた瞬間のことを想った。

「私たちは、チマブーエがまさに最初に見た時と同じように、裸の十字架を目にしているのです」バルディーニは語る。「画家が仕事をはじめようとしていた、まさにその瞬間と同じ目線で、そして、洪水によって大きく変化し今を生きる十字架を見る心持ちで、作品の前に立ってみてください。チマブーエ《十字架降下》はまさに、枝葉を失った一本の木であり、巨大なひとつの装置として、皆さんの前に立っています[3]

展覧会の会期が終了した同年6月4日、バルディーニのいうところの「枝葉を失った一本の木」である十字架の支持体は、修復作業場へと戻された。いよいよ補彩介入がはじまるのかと期待の目を向ける人々に対し、バルディーニは静かに首を振った。彼はさらに時間をかけ、洪水前と同じ水分含有量になるまで十字架を乾かし、選択するべき介入方法について考えを巡らそうと決めていた。実際のところ、この支持体を補強し、補彩するチーフに前述のオルネッラ・カザッツァを―彼女は後にバルディーニの妻となるのだが―彼が指名するまでに、あと3年の時間を要することになる。

ところで、「フィレンツェは修復する(Firenze Restaura)」が開催された1972年に、ヴァチカン市国サン・ピエトロ大聖堂で発生した大きな悲劇が、この3年の熟考期間と後の彼の選択に大きな影響を与えたことは確かだろう。1972年5月21日、オーストラリア人ラズロ・トートが「自分はイエス・キリストだ」と叫びながら、ミケランジェロ・ブオナローティ《ピエタ》の顔を叩き壊したのである。(図4・5)

《ピエタ》はそれまでもヴァンダリズム[4]により破壊され、修復士が行った再構成の是非を問題視する声があがるなど、常に問題に見舞われてきた。1972年の事件は、「徹底的に損傷した作品をいかに修復すべきか」という議題が再び注目を集め、専門家の議論が白熱化する契機となった。事件の翌日には既に、「残されたオリジナル部分だけを保存し、不用意な修復行為によりオリジナルの形状をこれ以上改変することは避けるべきである」との声が挙がっている。こうした意見はもちろん、1736年に発生した、聖母マリアの左手四本を折るというヴァンダリズムと、その後ジュゼッペ・リリオーニが行った修復介入をめぐる議論への反省という修復史に基づくものである(図6)。リリオーニが、マリアの仕草をより美しく見せるために誇張した修復を行ったのではないかという批判は、当時から美術史界と保存修復界を大きく揺らしていたトピックであった。

度重なる美術作品へのヴァンダリズムや被災による損傷破壊の事例を前に、ついに「修復をしなければ損傷もない」と断言し「非修復主義」を掲げる専門家が出現しはじめたこの時期、バルディーニは一連の論争を目にしながら、修復士としての自らの使命について思いを巡らせる。後に彼が執筆した『修復の理論—方法論の統一(1)』のなかで、バルディーニは、当時の事件を想起しながら、こう綴る。長くなるが、重要な部分なので以下に引用したい。

「作品を尊重し、誠実であろうとするがゆえに「何もしない」という決断は、サン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの《ピエタ》を思い起こさせる。幾人もの批評家や歴史家が、適用可能な修復についての仮説をたてるなかで、残存部分に作品の価値を委ねようとしたのは、1972年5月、作品が損傷を受けた翌日のことであった。狂気のヴァンダリズムが残した余波がまだ消えないうちから、どのような介入を行うべきか、議論が繰り広げられていた。現状のまま放置することを推奨する者がいる一方、作品全体を修復することを訴える者もいた。

これら二選択と肩をならべたところで、いますぐ、わたしたちの考えをここに書き記してあきらかにしよう。損傷は治癒することはない。そしてそれを修復することは、私たちに課された絶対的な使命なのである、と。

作品への「敬意」もしくはその他の理由から、傷を負った状態のままでミケランジェロの彫刻を放置することは、作品の本質へのセンセーショナルな「不敬」である。そればかりか、作品を「物質的に」かつ全体的により良い状態へとなおすことが可能であるのに、「死(タナトス)」へむかう発端をつくるという信じがたい行為であり、作品をもう一度、そして永久に破壊する行為なのである。…(中略)…もはや存在しない欠損部を完全に再建し修復するため、残存する部分を活用して鋳型をとる可能性があったとしても、そのことがミケランジェロ作品の実存を弱めはしないし、脅かしたり、気まぐれな偽造となることもない。ドラマティックな「メンテナンス」であっても、挿入された箇所によって作品は「なおされ」本質が再建される。それゆえ、鋳型の手法は公認され、適切な介入とみなされる。このような修復が行われないのであれば、美術史における死体運搬や屍姦の一例として、収蔵庫に保管する道を選んだほうがましであったろう[5]

修復士として、損傷した作品に介入することで、それを後世に伝えてゆく立場にある以上、「何もしない」でいることは許されない――1966年以降、いかに《十字架降下》の失われた彩色層を修復すべきか考え続けていたバルディーニは、《ピエタ》の事件を経て、自らの方針を定めたように思われる。そしてこの決意が、《十字架降下》に施された、かつてない補彩の技法へと結実してゆくのである。

1975年。いよいよ支持体の補強と、補彩が開始される。

 

[1] Clark, Robert. Dark Water, New York: Random House, 2009, p.  237.

[2] Ciatti, Marco., Granchi, Andrea. Vittorio Granchi e la scuola fiorentina del restauro, Firenze: Edifir, 2010.

[3] AA.VV. Firenze Restaura, Firenze: Gabinetto del restauro, 1972.

[4] 芸術品や公共物を破壊もしくは汚染する行為のこと。「ヴァンダリズム」の語は、西ローマ帝国を侵略したヴァンダル族に由来する。近年では、駅や公園など、公共の場に置かれたパブリック・アートへの落書きなどが「ヴァンダリズムによる美術作品の破壊」として大きな問題となっている。

[5] Baldini, Umberto. Teoria del restauro e unita della metodologia, Firenze: Nardini, 1978: 田口かおり『保存修復の技法と理論』平凡社、2015年、巻末抄訳参照。