田口かおりさんの連載「1966年11月4日、フィレンツェ――アルノ川大洪水の被害と復興の道のり」の第7回目をお届けします。著作権は田口さんにありますので、無断転載はお断りいたします。

目 次

  • はじめに
  • 第1回「前夜―11月3日」
  • 第2回「あふれた川―11月4日」
  • 第3回「天使の誕生―11月5日」
  • 第4回「荒れ果てた聖堂、水浸しの作品群、涙―11月6日からの闘い」
  • 第5回「修復家たちの奮闘[1]:ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチ(前編)」
  • 第6回「修復家たちの奮闘[2]:ウンベルト・バルディーニとヴィットリオ・グランキ(前編—支持体移動(トラスポルト)と「フィレンツェは修復する」展)」

 

第7回「修復家たちの奮闘[3]:ウンベルト・バルディーニとヴィットリオ・グランキ」(後編—「支持体の構造の強化」そして「補彩」へ)

1975年2月、《十字架降下》の水分含有量は、洪水前とほぼ同程度にまで落ち着いた。これを見届けたバルディーニは、ようやく首を縦にふった。いよいよ、ぼろぼろに崩れてしまったキリストの身体を再建する作業―補彩―にGOサインが出たのである。新修復施設「フォルテッツァ・ダ・バッソ(以下フォルテッツァと記す)」の面々は奮い立った。補彩の前段階として、まず行わなくてはならなかったことがある。それが「支持体の構造の強化」であった。

この作業の中心となったのは、フォルテッツァの主要な修復士と木工部門のメンバー たちである。支持体移動を行ったヴィットリオ・グランキに修復士レンツォ・トゥルキやロベルト・ボッディが加わり、弱体化した作品を背後から支えられる強靭なシステムを考案するべく、全員の共同作業が開始された。

「どのようにオリジナルの支持体を補強すべきか」という難問に立ち向かう彼らの関心は、十字架の構造だけではなく外観にも及んでいる。彼らは、20世紀に新たに作品に付与される物質が、《十字架降下》の見た目を「掻き乱す」ものであってはならないと考えていた。

《十字架降下》は、チマブーエによって制作された1200年代当時、聖堂の内陣と身廊を区分する内陣障壁(クワイヤー・スクリーン)に掲げられていた。つまり当時の人々は、作品のまわりをぐるりと歩き回ることができ、表層と裏面の両方を鑑賞することができるシステムになっていたのである。そのため、背面の桟は当時のものとしては非常に意深く計算され、視覚的にも美しい幾何学的な配置になっている。(図1)

fig7-1

図1.チマブーエ《十字架降下》オリジナルの裏面 aldini, Umberto., Ornella Casazza. The Crucifix by Cimabue, Firenze: Olivetti, 1983.   

この旧支持体を、もはや洪水のために弱体化しているから、と他の材にそっくり交換してしまうことや、完全に覆い隠してしまうことに、彼らは大きな抵抗を感じていた。とりわけバルディーニは、作品に刻まれた歴史的な痕跡を覆い隠すのは「欺瞞」「罪」に他ならない、と考えていたのである[1]

彼らはまず、《十字架降下》を構成している複数の支持体パネルを丁寧に分解した。十字架に取り付けられていた鉄製の骨組みを外し、鉄釘を一本一本引き抜いては、どの穴から抜かれたものかわからなくならないよう、番号札を付けて分類し、保存した。鉄製の骨組みを取り外した途端、作品が信じられないほどに軽くなったことに、皆驚いたという。後の計量によれば、この鉄製の骨組みは、200kg以上の重さがあった。

それぞれのパネルのために作業班が組まれ、状態にあわせて処置が行われていく。深い亀裂が走っているパネルには、《十字架降下》と同素材である古いポプラの木粉を糊で練った充填材が奥深くまで詰められた。木粉を選定する際には、《十字架降下》の支持体とほぼ同じ色味のものを探すよう、指示が与えられている。長らく浸水していたこと、そしてその後の急激な乾燥によって支持体が大きく湾曲し、両腕の付け根の部分をはじめ、彩色層との間に著しい距離が生じている箇所には、次々と印が付けられた。こうした箇所については、木片を足して隙間を埋め、湾曲前の支持体の状態へと少しずつ戻していく作業が行われた。聖母マリアと聖ヨハネが描かれた両サイドのパネルやキリストの光輪部分にあたる小パネルは、木製の釘によって中央パネルに接着されていたが、木食虫の被害を受けて既に釘はぼろぼろの状態にある事態も、この時点で判明した。修復士たちは手分けをして、オリジナルの釘とよく似た木釘を新たに製作した。

それぞれのパネルの処置が終了し、再び組み合わされる際には、元々の鉄製の骨組みに代わり、より軽く、錆の懸念がないステンレス材の骨組みが使用されることになった。

鉄釘が引き抜かれた箇所にはステンレス製の釘が打ち込まれ、隙間は樹脂で念入りに固められた。ただし本来の外観や作品本体との統一性を損なわないようにするため、オリジナルの鉄釘の頭部を切り落として、新釘の頭部に被せるようにして接着するという工夫が施されている。

このような作業を積み重ねながら、修復士たちは《十字架降下》の未来に想いを馳せていた。戦争、洪水、地震……数々の悲劇によって数えきれないほどの文化財を失ってきたイタリアでは、保存修復の方向性が、不測の事態が起きてからの対策から、常に有事に備える予防的な保存の取り組みへと変化しつつあった。こういった動向の背景には、ローマの美術史家チェーザレ・ブランディが長らく訴え続けていた「予防的修復 restauro preventivo」の概念があるのだが、この問題については、また章を改めて取り上げることとして、今は《十字架降下》の話へと立ち戻ろう。

木工部の修復士たちは、再び何がしかの出来事が起きて作品が被災した場合に備え、たとえ木板が大きく変形したとしても、彩色層への影響を最低限におさえることができるよう、木の支持体(オリジナルの十字架)と彩色層(前回の連載内で、新しいカンヴァスに移動した層)に樹脂の層を挟み込むシステムを考案したのである。

まず、木の支持体の上に薄く頑丈なスズ箔を載せ、微細な隆起ひとつひとつに沿わせぴったりと全体に密着させる。その上にポリエステル樹脂液を流し入れて硬化させ、数mmの厚みをもつ新しい中間層を作り、一番上の彩色層を受けとめる新たな下地として機能するように、表面をサンドペーパーで丁寧に磨き上げ、その上に後に除去が可能なアクリル系樹脂を用いて、彩色層を再置したのである。重要なのは一番下のスズ箔の薄い層だった。この層がオリジナルの支持体を完全にカバーしているおかげで、新しく挿入した中間層は支持体に直接べったりと接着しない。必要とあれば、中間層は簡単に取り外すことができるのである。くわえて、上述の作業を行う前に、修復士ジョヴァンニーニ・ヴェントゥリーニとレンツォ・ビオンディは、作品にちょっとした工夫を施していた。十字架の木板の表と、中間層の底とに、薄いマグネティック・プレートを埋め込み、支持体と中間層が磁力によって互いを柔らかく引きつけあう仕組みを作ったのである。

オリジナルの構造と外観をできるかぎり尊重し、後に取り外しや訂正が可能な―いわゆる可逆的な―方法を用いて修復すること。もしも、後世の修復士が今回の修復をすべて除去するべきだと判断した場合には、作品に損傷を与えることなく、あらゆる不可物を取り除き、被災後の作品の状態にまで時計の針を戻すことができること。この基本理念のもと、フォルテッツァの作業員が知恵を出し合い再生させたのが、新しい中間層を有する新たな《十字架降下》の構造であった。

さて、こうして2月からこつこつと行われた「支持体の構造の強化」が終了したのは、同じ年の秋であり、息継ぎをする間もなく、即、補彩介入が開始された。作業はここにきて、急ピッチで進められようとしていた。誰もが、修復のための時間がもはやわずかしかないのだと理解しはじめていた。バルディーニが翌年1976年の11月、つまり洪水から10年の節目には《十字架降下》の修復を終え、作品をサンタ・クローチェ聖堂に戻すべきだ、と考えていることが周囲に伝わりだしていたからである。

最長で120cmにも及ぶ巨大な欠損エリアを含む彩色層を再構成するにあたり、補彩班のチーフに任命されたのは、バルディーニの生涯のパートナーとなった若き修復士、オルネッラ・カザッツァであった。(図2)「これほどまでに大きな欠損をどう補彩すればいいのか」、カザッツァとバルディーニは、残された貴重な時間の多くを、補彩方法をめぐる討議に用いた。

バルディーニは、10年にもわたる《十字架降下》修復期間の間の熟考を経て、既存の方法で欠損部を補彩するのは不可能であるという結論に達していた。当時、イタリア各地では、オリジナルの筆遣いと異なる小さな筆致や点描により、欠損部の造形や色彩を再構成する「トラテッジョ」技法が広く用いられていた。トラテッジョの目的は、筆致を変えることにより、残存するオリジナルから修復箇所を明確に区別することにある。オリジナルと修復箇所を視覚的に明白な方法で区分するべきである、というところまでは、バルディーニの考えも同じであった。しかし、《十字架降下》の表層を走る縦長の欠損部すべてを一見オリジナルの彩色層が再構成されたかのような技法を用いて埋めれば、よりいっそう作品の「喪失感」や「偽物感」が強まるのではないか、とバルディーニは危惧していた。

討議の結果、バルディーニとカザッツァが導き出したのは、トラテッジョ同様小さな筆遣いで、ただし色彩としては赤・黄・緑・黒のみを用い、それぞれの色の線を重ねた複雑な色相により欠損部を補う「アストラツィオーネ・クロマティカ(線描による抽象的な色彩補完技法)」の技法であった。アストラツィオーネ・クロマティカの鍵は「補色」にある。バルディーニは、人間の目の網膜にある錐体細胞が赤と青と緑(時に黄も含む)を知覚する際に、各色の補色を自動的に感知する仕組みを利用しようと考えた。実際にはわずかな色で構成されているにもかかわらず、これらの色を並べ重ねて埋められた欠損部は、とらえどころのない色味として立体的に立ち上がり、細かく震え、明るく輝く(図3、図4)。つまり、作品を見る人間のまなざしという一種の「フィルター」のなかで、明度や色相が自動的に整えられるのである。

このようにして生み出された色調は、トラテッジョのように残存するオリジナルから識別されているだけではなく、オリジナルへ向かってゆるやかな「色彩の橋」をかけてくれる。バルディーニは、この補彩技法こそが「作業者の趣味にひきずられることがない、絶対的に有効な補彩方法であり、あらゆる事例に適応可能」な補彩方法である、と確信していた。

アストラツィオーネは、ローマの美術史家チェーザレ・ブランディが考案した「中間色」の技法にもある意味では非常によく似ている(図5)。中間色は、下地と彩色層のあいだを行き来するかのような「中間の色」(大概は灰褐色のような色が用いられた)一色によって欠損部を埋める技法であったが、バルディーニはこの中間色を単色によってではなく、細かな筆致による4色の交錯により生み出そうと試みたともいえる。

アストラツィオーネでは、中間色同様、失われた部分―目であれ、唇であれ、眉であれ―の想像的な再構成は行わない。作品が傷つき、一部は徹底的に失われたという事実、そしてオリジナルの状態を完全に再建することが不可能であるという前提を受け入れた上で、あえて「抽象的なastratto」色相により欠損部を補彩するのが、バルディーニの方法だった[2]。「この技法を用いることで、修復が作品の複製をつくりあげてしまうことや、たんなる偽造行為と化すこと、あるいは作品上に流れる「時間」と競い合うといった事態を避けることができるでしょう」と、後にカザッツァは語っている[3]

《十字架降下》への補彩介入の目的は、「試験的な試みや模倣、あるいは形態の再建の示唆ではなく、欠損部に正しい色彩の共振をもたらすこと」、そして「いまだ残存している彩色層の「孤島」をよりよく繋ぎあわせること」にあった。挑戦は成功し、「頭部では、各箇所が造形的に接続されたゆえに、残されたオリジナルの色彩片が十分に際立って見えるようになった」と、バルディーニとカザッツァは述べている[4](図6)

この補彩介入から2年後に出版されたバルディーニの著作『修復の理論——方法論の統一』(二冊組)のなかで、バルディーニは当時の介入を振り返りながら、修復士の使命について語っている。本章の最後に、バルディーニの力強い宣言を引用しておくことにしよう。

修復士とは、作品に元々備わっていなかったものを与える存在です。だからこそ、介入は、決してオリジナルの要素を改変するようなものではなく、むしろその所在を際立たせて明るみにだすものであるべきなのです。

求められるのは、趣味や個人的な采配によってではなく、作品の真実そのものから抽出された原則に即した、批判的な処置なのです。

こういった介入こそが、確かに、絶対的に、必要だったのです![5]

[1] Baldini, Umberto., Ornella Casazza. The Crucifix by Cimabue, Firenze: Olivetti, 1983, pp. 33-36

[2] なお、欠損部分の形状や色彩が再建可能であれば、「アストラツィオーネ」にかわり「セレツィオーネ・クロマティカ(選択的な色彩による補彩技法)」が用いられた。これは赤・緑・黄の三色を主に用いて、失われた箇所の造形を復元する介入である。「再建可能」であるケースとは、例えば欠けている個所が比較的小さかったり、あるいは木々や建物、衣服の一部など周囲の残存部から欠損部の様子が確実に類推できる場合のことである。

[3] Baldini, Umberto. Teoria del restauro e unita della metodologia, Firenze: Nardini, 1978: 田口かおり『保存修復の技法と理論』平凡社、2015年、巻末抄訳参照。

[4] Ibid.

[5] Ibid.