田口かおりさんの連載「1966年11月4日、フィレンツェ――アルノ川大洪水の被害と復興の道のり」の第10回目をお届けします。今年最後の記事は、ちょうど40年前のできごとについて記したものです。次の記事は1月下旬の配信を予定しています。著作権は田口さんにありますので、無断転載はお断りいたします。
目 次
- はじめに
- 第1回「前夜―11月3日」
- 第2回「あふれた川―11月4日」
- 第3回「天使の誕生―11月5日」
- 第4回「荒れ果てた聖堂、水浸しの作品群、涙―11月6日からの闘い」
- 第5回「修復家たちの奮闘[1]:ウンベルト・バルディーニとウーゴ・プロカッチ(前編)」
- 第6回「修復家たちの奮闘[2-1]:ウンベルト・バルディーニとヴィットリオ・グランキ(前編—支持体移動(トラスポルト)と「フィレンツェは修復する」展)」
- 第7回「修復家たちの奮闘[2-2]:ウンベルト・バルディーニとヴィットリオ・グランキ」(後編—「支持体の構造の強化」そして「補彩」へ)
- 第8回「修復家たちの奮闘[3]:ディーノ・ディーニとエンツォ・フェッローニ ―― 傷ついたフレスコ画群への介入」
- 第9回「修復家たちの奮闘[4]:チェーザレ・ブランディと「予防的修復」」
10 キリストの帰還:1976年12月14日
ウンベルト・バルディーニ、ウーゴ・プロカッチ、ヴィットリオ・グランキ、オルネッラ・カザッツァ、ディーノ・ディーニ、チェーザレ・ブランディ――数々の美術史家、化学者、修復士たちが、1966年のアルノ川洪水からの復興史においてどのような役割を果たし、葛藤のなかで独自の役割をいかに全うしてきたのか、その道程をここまで追ってきた。
話を再びチマブーエ《十字架降下》へと戻そう。
1976年12月14日、冷え込みの厳しい朝に、一台のトラックがサンタ・クローチェ聖堂に向けて走り出した。修復作業は完了し、いよいよ作品が聖堂へ戻される日を迎えたのである。《十字架降下》がサンタ・クローチェ聖堂壁面に垂直に立ち上がって文字通り「架けられる」のは、制作が完成した数世紀前以来、初めてのことである。その重量を支えるため、そして不測の事態に備えて、数多くのスタッフがすでにサンタ・クローチェ地区に控えていた。
トラックは、10年前の12月2日に、サンタ・クローチェ聖堂からリモナイアに向かい傷ついたキリストを載せて走ったのと同じ車体であり、運転していたのもまた、10年前と同じドライバーであった。こうした「物語」を、バルディーニは、そして《十字架降下》再搬入班の面々は、重要であると考えていた。10年前、幾つもの橋をわたってアルノ川を超え、山道を辿って移動していくキリスト像が包み込まれた布の塊にむけて、胸元で十字を切っていた人々の姿が、彼らの脳裏にはいまだに焼きついていた。今晩、キリストは彼らの元に戻ってくる。フィレンツェはキリストを「取り戻す」のである。その花道は、静かで穏やかなものでありながら、芸術都市フィレンツェの、そしてキリストの「不変」をアピールするものでなくてはならなかった。そのために、同じ人物が、同じ車で、同じ道を辿り、修復後のキリストを戻すという演出が大きな役割を果たした。
聖堂内では、修復後のキリストを披露するための集会が開かれた。冒頭に挙げた幾人もの関係者たちが見守るなか、この10年の処置の様子をおさめたドキュメンタリー・フィルムが上映された。暗い画面には、既にイタリアを離れ帰国した幾人もの「泥の天使たち」が映し出されていた。実際のところ、登場する人物の数は驚くほど多かった。フィルムは、いかに多くの人々が《十字架降下》のプロジェクトにかかわってきたのかを改めて知らしめるような仕上がりになっていた。
オルガン演奏はバッハにはじまり、バッハに終わったという。オルガニストは最後にトッカータとフーガニ短調を奏でた。冒頭の有名な一節は、喜劇やパロディで用いられることでも知られているが、この夜、響きを耳にした人々は、十年前の街を襲った突然の悲劇を思い返しており、笑みを浮かべることは難しかった。まさにバッハの一節そのままに、あたかも雷に打たれたかのような一撃のもと、フィレンツェの街は水中に沈んだ。記憶はなまなましく、戻ってきたキリストもまた、修復されたとはいえ、欠損部は欠損部とわかるような「いたましさ」に満ちていた。
バルディーニは、《十字架降下》の修復完了にあたり、次のように述べている。
取り返しのつかないほどの損失にもかかわらず、《十字架降下》は再び、本来の作品が持っていた、筆舌に尽くしがたい美しさをもう一度認識できるようになりました。今迄に行われてこなかったほどの深い解釈によって、イタリア絵画における絶対的な名画としての立ち位置を、今こそ、立証したのです。
バルディーニの上述の言葉どおり、《十字架降下》はイタリア絵画史上において「再発見」され、その美しさと歴史的価値を賛美する声が美術史家たちから挙がりはじめていた。こうした流れのなかで、バルディーニが本作品のために選択した修復技法ーーとりわけ補彩が、早くも批判の対象になっていたことは、紛れもない事実である。
古代から現代に至る長く波瀾万丈な保存修復史に照らしあわせてみても、バルディーニが生み出した「アストラツィオーネ・クロマティカ(線描による抽象的な色彩補完技法)」は、あまりにも異色であるように思われた。洗浄であれ、裏打ちであれ、絵具層の移し変えであれ、これまで行われてきた多くの保存修復技法は、多かれ少なかれその正当性や可逆性をめぐる議論を引き起こし、批判の対象となってきた。バルディーニの補彩もまた、ロバート・クラークも証言するように、ある種の「ターゲット」と化し、保存修復関係者の集中砲火を浴びてしまう。
例えば、ローマの中央修復研究で壁画や文化財の保存修復に携っていたパオロ・モーラとラウラ・モーラは、アストラツィーネ・クロマティカの目的はバルディーニの言葉を借りるならば「作品の真実そのものから抽出された原則に即した、批判的な処置」であり「残されたオリジナルの色彩片が十分に際立って見えるように」するためのものであるにもかかわらず、むしろ補彩の技法が「真実」を曇らせ、視界を混乱させ、オリジナルよりも介入箇所を目立たせる結果になっている、と指摘した[1]。モーラ夫妻に言わせれば、アストラツィーネ・クロマティカは、カザッツァが避けようとした「修復が作品の複製をつくりあげてしまうこと」や、「たんなる偽造行為と化すこと」を、むしろ体現している介入方法であった。
ボローニャ大学の美術史家アレッサンドロ・コンティは、サンタ・クローチェ聖堂への作品の帰還は「勝利どころか悲劇だ」と述べている。「無鉄砲な修復士が美術作品の物質的な本質を危険にさらした結果、めちゃくちゃになってしまった。もはや、作品に見るべきものはほとんど残っていない」
バルディーニ自身はこうした批判にいかに反応したのだろうか。実のところ、彼は表立っての反論を行うことはなかった。その代わりに彼は2年後の1978年に独自の修復理論書「修復の理論——方法論の統一」を執筆した。彼はここで、「補彩」「作品の生命時間」「改作」について饒舌に語ることになる。
バルディーニはここで、「介入を決断すること」の重要性を説く。居心地の良い「不可侵」の背後に隠れ、「介入もなければ損傷もない」という原則の傘にかくれることは、修復士としてもっとも望ましくない姿なのだ、と彼は主張した。
「作品は非常に速いスピードで破滅してゆく。放棄という名の壁—建築物のなかに閉じ込められ置き去りにされた作品は、不適切な処置を受け、治療薬の存在しない断片のフェティシズムへと向かう。(中略)わたしたちの生きる時間にまで辿り着かせ、沢山の事物の残存を可能にする「メンテナンス」の術。メンテナンスと保存の行為は偶発的なものではなく、「必ず」行われるべきものなのだ。さもなければ、作品が時の経過とともに消耗したり、あるいは消耗してゆく過程で何かしらの偽造を気ままにほどこされてしまう事態を避けられないからだ。事物の劣化を眺めつつ、なんとかその劣化速度をゆるめて永遠に停止させられないものかと気を揉みながら作品のまわりをうろつくことに、何の意味があるだろうか? 作品の真実を視るための「絶対不可欠な条件」が失われたまま作品を保存したところで、わたしたちは未来に何を伝達できるというのだろう?[2]」
「修復の理論——方法論の統一」において、バルディーニは、言外にチマブーエ《十字架降下》への介入は「死thanatos」か「延命=生の謳歌eros」か、という究極の選択であった、と振り返っている。いったん、「死」ではなく「延命」を、という選択を確立したならば、介入は必要不可欠な行為となる。バルディーニがここで追い求めたのは、「作品の真実を歪曲することなく、忠実に明るみに出す」ことであった。模倣的・競争的な介入技法を裂けて、「抽象性」と呼ばれるところのものに依拠し、残存する素材への介入を行うような補彩。バルディーニの追い求めたオリジナルへの配慮は、アストラツィオーネ・クロマティカの名で生を受け、チマブーエのキリスト像に刻まれた。
彼の選択を「個人的趣味の延長」を切り捨てる多くの美術史家たちは、しかし、本の出版後も後を絶たなかった。
キリスト像が聖堂に戻された同年、画家のアレッサンドロ・クレリチは《十字架の木々》と題された作品を発表している(図1)。チマブーエのキリスト像が一部刻まれた十字架型の木箱が、水に濡れた空っぽのホワイトキューブのような空間から紐で釣り上げられている様子が描かれている。十字架は棺のようにも見える。そして、今まさに作品のレスキューが行われるところのようにも、あるいは屍となったキリストが屋内に戻されようとしているかのようにも見える。傾いた《十字架降下》の姿に、当時、キリストをめぐり渦巻いていた攻撃的な文言や批判の数々が重なるかのようだ。
こうした声の数々からまるで逃れ去るかのように、1982年から《十字架降下》はフィレンツェの街を再び離れることになる。世界中の泥の天使たちへ、そしてイタリア美術を愛するすべての人へ、フィレンツェの復活を宣言し、惜しみない援助への礼を伝えるための「ワールドツアー」へと、旅立ったのである。1966年の洪水被害とそこからの復活のシンボルとして、《十字架降下》は不動の知名度を獲得しつつあった。親善大使の任を負った作品は、慎重に梱包され、未知の世界へ――国外へと歩み出していったのである。
注
[1] Clark, Robert. Dark Water, New York: Random House, 2009, p. 254.
[2] Baldini, Umberto. Teoria del restauro e unita della metodologia, Firenze: Nardini, 1978: 田口かおり『保存修復の技法と理論』平凡社、2015年、巻末抄訳参照。
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