ここでは、「被災地の遺跡を考える見学会」(以下「見学会」)活動を中心にまとめる。「見学会」は、96年9月の「被災地の埋蔵文化財についての緊急報告会」をうけて始められた。その趣旨は、被災地の遺跡とそのとりまく状況について認識を深化させ、遺跡の公開・保存・活用に向けた行政・在野の考古・文献両分野の研究者・地元住民・他地域の市民・マスコミ相互間のネットワーク形成をはかるというもの。いったい「埋蔵文化財」とは、如何なる意味でまた誰にとっての「財」であるのか。その「財」としての「価値」は、どのような関係のなかで認識され実現されるべきなのか。理念的にいえば、こうした問題に対する答えを模索していこうというのが、「見学会」活動の動機であった。もとより、明確な解答は得られるべくもない。ただ、以下の活動総括に、答えに迫る手がかりなり方向性を読みとってもらえれば幸いである。
「見学会」は、以下のように計7回持たれた。
(1)96年11月6日長田神社境内遺跡(長田区宮川町・中世〜近世の神官住居跡)参加者12
(2)96年12月19日明石武家屋敷跡(明石市東仲ノ町・明石城下武家屋敷跡)参加者8
(3)97年1月29日兵庫津遺跡(兵庫区西出町・18世紀頃の兵庫津跡)参加者18
(4)97年3月10日猪名荘遺跡(尼崎市潮江町・奈良時代の大柱穴群等)参加者14
(5)97年4月2日住吉宮町遺跡(東灘区住吉本町・5〜6世紀の古墳群)参加者21
(6)97年6月3日上沢遺跡(兵庫区上沢通・弥生〜鎌倉時代の集落跡)参加者22
(7)97年7月9日兵庫津遺跡(兵庫区永沢町・13〜16世紀の兵庫津跡)参加者48
次に、対象遺跡の概要を記す。(1)は、古代以来の由緒を持ち豊富な関連史料が残る、長田神社の神官住居跡と考えられる遺跡。文献との比考の成果が待たれる。(2)は、武家屋敷一戸分の全体的発掘という貴重な事例。現存最古の城下区画図(享保年間)以前の城下街路と思われる遺構もみられ、その点でも重要な意義をもつ遺跡である。(3)の発掘部分は、兵庫津北浜地区の町場。遺物の年代と古絵図等から、兵庫津惣門外東部に18世紀中頃以降開発された新開地と推定。また、江戸時代の遺物包含層以下から遺物の発見はなく、中世兵庫津域確定にも意義有り。(4)は、旧字名「東大寺」が残る地区で発掘された、倉庫群跡かと推定される奈良時代の大規模柱穴群。この地域に比定されていた東大寺領猪名荘の跡地確定と、その内容・性格の解明に大きく資する遺跡。また、猪名荘については奈良時代の年記(天平勝宝年間)がある絵図も残り、対比による遺跡・絵図相互のより精確な解釈・評価が今後期待される。(5)は、同時期の集落遺跡が付近に確認でき、それに付随する集合墓地的性格の遺跡と考えられる。(6)は、長期間にわたって連続的に営まれた住居区跡。遺跡周辺は、周囲の低地から一段海抜が高い。「見学会」参加の地元住民から、遺跡付近の地区のみ阪神大水害の際に被災を免れたとの教示あり。また、発掘調査員によれば、周囲の低地では遺跡・遺物が確認されていないとのこと。この地域が、現代に至るまで一貫して住居区域としての好条件を備えていることが了解された。(7)では、国道沿いという現場の特殊性等から見学はならなかったが、中世前期の石組みが発掘され、兵庫津の公的施設としての役割を担った建造物の遺構とも考えられる。遺物の構成は、陶磁器(日用品が中心)を主とする。
行政との協力関係については、(5)(6)は神戸市、それ以外は兵庫県との連携によった。参加者の構成は、大学関係者(教員・院生・学生)・地域の歴史研究団体会員・行政の研究者・新聞広告を通じて集まった主として阪神間の市民および遺跡周辺の住民と多彩であり、この点、「見学会」立ち上げの趣旨を反映させたものになった。現場での解説は、対象遺跡の多くが文献史料と対比可能であったこともあり、現場調査担当者からのものに加えて、参加者(院生等)による主に文献史学の側からの解説を準備するように努めた。これには、考古学と文献史学相互の学術的交流と歴史研究者から地域社会への研究成果の還元活動という2つの意味が込められている。そのなかで、たとえば(7)では、文献から推定された兵庫津の発展・衰退の有様と、現場から紹介された出土遺物の量・出土区域の時期的展開の様相とがほぼ合致するという関係が見えてきた。また、(6)のように、地元住民ならではの情報が遺跡についての理解・評価を深めたということもあり、そうしたところにも、「見学会」の趣旨と人的構成が生きたと思う。さらに、遺跡をとりまく歴史的環境に対する理解を深め、遺跡についての認識がより立体的になることをねらって、「見学会」に組み合わせて遺跡周辺の史跡を見て歩くという試みも行った(7)。
「見学会」の趣旨のひとつは、地域社会の復興が進むなかで、遺跡がどのような立場におかれているかについての認識を深めるところにあった。以下、この視点から各対象遺跡について整理する。(1)は、震災によって倒壊した住民所有の民家跡へのマンション建設にともなう調査発掘。周辺住民からは、景観破壊等を訴えたマンション建設反対運動が興っている。発掘事業は、マンション建設の露払い役とみなされ、反対運動の糾弾の矢面に立つことも。(2)は、震災以前から計画されていた、JR明石駅前の再開発にともなう調査発掘。現場の規模(1万2千平方メートル)と意義に対して、調査期間は1年間と短期。調査区域内の店舗・住居の立ち退きの進み具合との関係でも、調査期間の無理はいや増しに。また、この現場では、遺跡周囲のフエンスを金網にし遺跡の説明パネルを設置する等、地域の文化財としての公開性を高める独自の努力が見られた。(3)(7)は、国道2号線沿いの共同溝敷設工事にともなう調査発掘。交通網の円滑な機能維持のため、調査が終わった部分については即鉄板をかぶせ、簡易車道として使用。車の轟音のなかでの発掘であり、都市部での発掘調査のおかれた厳しい状況を象徴する現場。しかし、地元住民の現場見学も頻繁であるとのこと。(4)も、震災以前から計画のJR尼崎駅前再開発にともなうもの。(5)は、震災で倒壊した民家跡に、民間の集合住宅が建設されるのにともなう発掘。調査期間は、わずか2ヶ月。(6)は、被災地における道路拡張および区画整理にともなうもの。いわゆる住宅地の「減歩」が問題となることも予想される。
被災地の遺跡調査は、原則として文化庁による復興特例措置の枠内でおこなわれている。そこには、被災地外自治体からの応援調査員派遣等評価される側面もあるが、その大前提は、「遺跡の保存を前提としない調査発掘」である。たとえば、(3)などは、学術的価値を強調する従来の基準によっても、当然保存されてよいところである。しかし、それを含めて「見学会」の対象となった7例とも、それぞれ地域社会にとって独自の歴史的意義と内容を備えた文化財でありながら、全て保存の対象とならない。また、調査期間の点でも、調査主体の判断で調査期間が設定され工期はそれにあわせて延期されるという通常とは逆に、工期に調査期間が従うというかたちとなり、各現場とも非常に短期間の調査日程を強いられている。さらには、試掘の深さが建築物の基礎に必要な削掘の深度をこえないという限定もある。こうした原則的枠組みが強制されるなかで、震災以前からのものを含めた、必ずしも住民主導とはいえないマンション等の開発計画が、「復興」名目で財政的にも援助されつつ促進されるといういわば「便乗」的開発のケースが目立つ。また、それらと地元住民との間で軋轢が生じる場合もみられた。そんななかで、(2)の現場での試みは評価される。今後このようなレベルでの文化財公開の可能性は、多様に追求されるべきであろう。
こうした7回の「見学会」に続いて、「見学会」が猪名荘遺跡を対象としたこともきっかけとなり、97年11月の学習会を皮切りに「猪名荘遺跡を学ぶ会」(以下「学ぶ会」)が立ち上がった。「学ぶ会」は、尼崎市潮江地区住民のネットワークと史料ネットとの連携による活動である。第1回の学習会は、参加者約60名。大学・行政等の研究者とが意見交換しつつ地元住民・市民とともに猪名荘遺跡に対する認識を深め、その歴史的意義を確認していく場が設定されたことじたいに意義。また、当日公開された出土遺物の墨書土器中に「西庄」と読める文言のあることが、参加者による意見交換のなかで明らかになったことも学術的に重要な成果。第2回学習会は、98年3月に開かれ、参加者約30名。講師による報告は、奈良時代の猪名荘絵図が持つ歴史的意義を確認しさらに絵図と遺跡現場との地理的な比較考証を試みたもの。そのなかで、「西庄」の文言がある墨書土器出土地点を含む奈良時代の倉庫跡が、荘園管理施設を指す記号が付された絵図中の地点と一致するという見解が示される。その後、絵図の内容をより深く読み込み現在の潮江地域の地理的景観との関係を実感的にとらえるという趣旨で、遺跡周辺地域を実際に歩いて見学。第1回学習会については、参加者に地元住民が少なかったこと、学習会が時間的に長く内容的にも専門的に過ぎ全体として「学術的シンポジウム」といった趣が強かったことが、「地域社会本位に文化財を活かす」という視点から反省として出された。第2回は、こうした反省に立って地元住民中心の構成になるように努力し、時間的にもコンパクトに、また第1回の学術的姿勢・成果を継承しつつも地域社会の生活実感により近づけて遺跡を学ぶという内容でおこなった。
これ以後「学ぶ会」の活動は、地元住民のネットワークが中心となって主導し、史料
ネットが講師紹介等でその都度協力するというかたちで現在まで継続している(99年2月の第5回学習会が最近のもの)。「学ぶ会」発足の趣旨は、埋め戻された猪名荘遺跡についての記録・情報を学び、将来的には潮江の新しいまちづくりのなかに地域の記憶・財産として具体的に活用するというかたちで「保存」していこうというものであった。文化庁の特例措置に象徴されるような、地域開発優先の一般的趨勢については当然意義申し立てを続けていく必要がある。しかし、そのこととは別に、従来型の「保存」(史跡公園化等)の枠組みにとらわれない、新たな「保存」のかたちが見つけられないものか。現在「学ぶ会」の活動は、地元主導であるという点とあわせ、内容的にも潮江のまちづくりのなかに猪名荘遺跡を具体的にどのように組み込んでいくかという次元の議論を行う(98年12月・第4回「歴史を生かしたまちづくり」)等、その趣旨に沿った展開をみせている。それは、「見学会」活動の発展であり、そのささやかな成果でもある。
平成9年度〜平成11年度 科学研究費補助金 基盤研究(B)(1)研究成果報告書
『被災史料保全活動から見た都市社会の歴史意識に関する研究』(82〜84頁)より引用
- 長田神社境内遺跡(長田区宮川町)
- 明石武家屋敷跡(明石市東仲ノ町)
- 兵庫津遺跡(兵庫区西出町)
- 猪名荘遺跡(尼崎市潮江町)
- 住吉宮町遺跡(東灘区住吉本町)
- 上沢遺跡(兵庫区上沢通)
- 兵庫津遺跡(兵庫区永沢町)
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