[ ホーム ] [ 上へ ] [ 過去の活動内容 ] [ リンク集 ] [ 歴史資料ネットワークとは? ] [ 史料ネット総括集 ] [ 福井史料ネットワーク情報 ] [ 史料ネット入会案内 ] [ 史料ネットの取り組み ] [ 宮城歴史資料保全ネットワーク ] [ 募金のお願い ] [ お知らせ ] [ 関係論文一覧 ]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ☆被災地の歴史資料・文化財の保全、震災の経験の記録化と保存!!

        ★幅広いネットワークづくりを通じて、歴史・文化を復興に活かす!!

             ☆被災地から全国へ、歴史学と社会をめぐる普遍的な課題へ!!
 
第8号 1997年3月19日(水)
史料ネット NEWS LETTER    
発行 歴史資料ネットワーク(神大文学部内)
TEL078-881-1212(内線呼出),FAX803-0486
 
目次
「震災と歴史学パート2」速報ほか…………… 1   震災資料・記録編さんをめぐる動き……… 3
埋蔵文化財問題の現状ほか………………… 2   震災後の古書市場の動向…………………… 3
特集 史料ネットに寄せられた声から

河島 真氏… 4  保立道久氏… 5  塚田 孝氏… 6  山本幸俊氏… 7  田中淳一郎氏… 9
細井 守氏…10  佐賀 朝氏…10  日本史研究会大会特設部会参加者の感想文から………12

文書等所蔵施設の被害調査まとまる……………18 文献情報…………………………………18

 

「阪神・淡路大震災と歴史学 パート2」開催!!

 前号で予告した研究会「阪神・淡路大震災と歴史学 パート2」が、2月16日(日)午後1時30分〜5時、参加者38名によりエルおおさかにて開催されました。辻川敦氏による、日本史研究会大会特設部会での議論を受けてのコメントののち、市民と研究者のずれをどう埋めていくのか、ボランティアと行政の関わり方はどうあるべきなのか、今回の活動を戦後歴史学や史料保存事業の流れのなかでどう評価するのか、といった点について活発に意見がかわされました。

 史料ネットでは、今後もこういった議論を積み重ねていきたいと考えています。なお、この研究会での議論の内容については、いくつかの学会誌に参加者の報告が掲載される予定です。
 
被災地の現状−神戸市東灘区魚崎地区から−

☆被災地の復興は着々と進んでいるかのように言われています。その一方でマスコミ報道からも、復興のあり方をめぐって様々な問題点が噴出していることがうかがわれます。 
★被災地の実態はどうなっているのか、激甚地のひとつである神戸市東灘区魚崎地区に住まれ、ボランティアとして被災史料・文化財問題にかかわるかたわら住民としてまちづくりに取り組まれる内田俊秀氏(京都造形芸術大学助教授)に話をうかがいました。

 今、被災地の更地にはどんどんと高層住宅が建ちつつあります。従来からの街のたたずまいなどといったことは、一切おかまいなしです。とにかく建てればよい、住宅を開発して売って、そこに人が住めばよいという発想です。開発主体の企業は、行政が認可しているのだからそれで良いという態度で、歴史的にはぐくまれてきた景観を尊重しようというような発想はまったく感じられません。行政側も、それをなんとかしようという気もないようです。

 建てられる住宅のほとんどは、20代前後の若い世代にねらいを絞ったマンションです。高価だと売れないので、おのずと一戸あたりの面積と価格が決まってくるのです。永住を前提としない、子供ができると手狭になり転出していくようなマンションばかり目につきます。

 こういった住宅に住む人々は、ずっと住み続ける気があまりないので、地域の住環境をどうしようといった関心もあまりない。そして、こういった住宅が増えれば増えるほど、住民がどんどん入れ替わっていくことになります。自治会などを中心に、皆でまちづくりを考えていかなければならないのに、これでは地域のコミュニティは希薄化するばかりです。
 こうして、高層マンションと、地域に関心のない住民ばかりが増えていく、これが被災地の実情です。こうしたなかで、なんとか地域のコミュニティを建て直し、少しでも住民本位のまちづくりの方向へと頑張っているところですが、とにかくしんどい。歴史や文化がどうのこうのというよりも、まず住環境の問題について周囲に問いかけているところです。こういう足もとを見つめ直す視点から、住民が神戸や阪神地域の近代の歴史を考え直していく、それにこたえるような学際的な研究を望んでいます。この地域には外国人も多い。地域を考えるうえでは国際的な視点も必要になってくるでしょう。

 (内田氏談、文責編集部)
 
 
史料ネット活動支援募金  (郵便振替)

名義 阪神大震災対策歴史学会連絡会   口座番号 01090−7−23009

 
 
埋蔵文化財問題の現状
 

 この間催された、「被災地の遺跡を考える見学会」第3回、第4回の模様を報告します。

 第3回(1月29日)は、神戸市兵庫区の「兵庫津遺跡」を対象とし、18名が参加。国道2号線共同溝の工事にともなう調査発掘でした。発掘部分は、江戸時代兵庫津の北浜地区の町場にあたり、石垣や陶磁器等が出土。遺物の年代・古絵図等から、この地域は、兵庫津惣門外東部、18世紀中頃〜の新開地であることが推定されるとのこと。また、江戸時代の遺物包含層の下からは、中世の遺物は発見されず、よって、中世の兵庫津は、今回の発掘地域にはかかっていないということが確認でき、中世兵庫津域確定という点からも、今回の調査は意義があるということです。現場は、国道2号線のど真ん中ということでもあり、車の轟音もものすごく、調査員のかたの説明を聞き取るのも困難な程でした。調査主任は、地元の方で、現場近くの市場の方々とも顔見知りのようで、それもあってか、発掘現場への見学者が絶えないとのこと。また、主任の方の、当遺跡に対する思い入れもひとしおのようで、当日の解説レジュメも、非常に詳細につくっておられ、車の轟音に声は届かずとも、それに耐えて、遺跡の内容と意義は、聞くものに明確に伝わってきました。「兵庫帖 邸廾茲蓮◆屮蓮璽弌璽薀鵐鼻廚魎泙燹・畴・導・・・垢鵑某覆瓩蕕譴討い訝楼茵C楼茲粒・・犯・犬修貅・里蝋猟蠅気譴襪戮C發里任靴腓Α・靴・掘△修譴・匹里茲Δ雰舛嚢圓錣譴襪・砲弔い討蓮△修粒・・・・里燭瓩里發里・箸いΔ海箸板招襪垢觧・舛世韻法⇒渉・欺鼎任△辰徳海襪戮C世蹐Δ隼廚い泙后・修譴・・楼莠匆颪里弔覆・蠅魏鯊里掘△修瞭{爾鬚・]辰垢茲Δ覆發里任△辰討いい里・匹Δ・・馥擦硫爾亡蕕鮓・擦拭∪亞世醗篳・蓮△修辰海里箸海蹐砲弔い董・疹覆鯒・辰討い襪茲Δ砲盍兇犬蕕譴泙靴拭#・鹿仂 斜 A棉芭就辺嘖鋲戡>ぢ第4回(3月10日)の対象は、尼崎市潮江の「猪名荘遺跡」で、14名が参加。震災前からの駅前再開発計画にともなう調査でした。発掘部分からは、奈良時代の倉庫郡跡かと推定される、大規模な柱穴が相当数みられ、この地域に「東大寺」の旧字名が残ることとあわせて、東大寺領荘園に関連し、おそらくその中枢部分を構成する施設の跡と想定されます。今回の発掘成果は、長らく、この地域に比定されていた東大寺猪名荘跡地の確定に、大きく一歩迫り、それとともに、この荘園についての内容・性格の理解を深めるものと思われました。

 次回(第5回)の「被災地の遺跡を考える見学会」は、神戸市東灘区の「住吉宮町遺跡」を対象に、4月2日に行います。JR住吉駅改札口(駅建物2階)前に、午後3時集合ということにしたいと思います。今回は、神戸市との協力による初の見学会です。皆様、積極的かつお気軽にご参加下さい。   (文責・井上勝博)

 
 
川西市・西野家文書整理作業終わる
 一昨年の1995年11月から継続していた川西市・西野哲夫氏所蔵文書の仮整理(現状記録方式による)は、2月13日の作業をもって一応終了にこぎつけました。作業回数22回、のべ参加人員105名、足かけ3年にわたる長期作業となりました。今回、仮整理作業を行った文書は、総計8,624点に上り、その内容も伊丹の漢学者太田北山の漢学塾関係の史料や川西小学校の初代校長である近藤三郎の教育活動に関する史料など、近代の教育関係史料を多数含む、興味深いものでした。このほか、西野家が所在する小戸村の近世・近代文書も含まれています。

 その内容の一部は伊丹市で開かれた市民講座の際の救出史料ミニ展示でも紹介しました。また、こうした整理作業の過程で、修士論文で太田北山のことを研究しようという人も現れ、被災史料救出活動を通じて被災地を対象にした地域史研究が展開していくケースともなりつつあります。文書は、今後もお宅で保存されていきますが、文書の内容についても、今後、関係者の研究発表などの形で紹介されていくことになるでしょう(関心のある方は担当の佐賀までお問い合わせ下さっても結構です)。 (文責・佐賀朝)

 
震災資料・記録編さんをめぐる動き
 

 去る2月27日(木)、震災記録に関する協議が尼崎市立地域研究史料館でおこなわれました。参加者は12名。協議では、21世紀ひょうご創造協会の佐々木和子・伊藤亜都子両氏から同協会の避難所資料収集の取り組みや、神戸市長田区役所での震災資料コーナー設置の動きなどが紹介されました。ここでは、佐々木・伊藤両氏らのひとつひとつの避難所を回りながらの地道な調査活動のあり様が披露されると同時に、しかし他方で、同じ趣旨のもとに震災資料の調査・収集を行なう機関が増え、これらとの間でお互いに競合を避けるために今後いかにして連絡調整をとっていくかといった問題が指摘されました。また、同日の協議では、ライブラリアンネットによる公共図書館を対象とした新聞保存状況のアンケートのまとめ、神戸大学の「兵庫県南部地震に関する総合研究」の中での震災記録保存に関する研究の立ちあげの動き、などが紹介されました。今後は今回の協議を踏まえて、昨年2回にわたって開催した「震災記録の保存と編さんに関する研究会」の第3回を開催する方向で検討していきたいと思います。

 また、震災資料問題については、昨年11月、自治体による震災記録集として、西宮市『1995.1.17 阪神・淡路大震災−西宮の記録−』が刊行されました。これは、同市総務局行政資料室の編集になるもので、7章からなり、地震の発生から被害状況、応急対策、復旧作業から今日における復興の取り組みまでを、豊富な資料をもとに記録しています。本書の特徴は、同市の公文書、市政ニュースからビラ・看板の類まで、様々な原資料を駆使し、単なる数値の羅列にとどまるのではなく、客観的でありながら、しかし実に生き生きと同市の震災への取り組みをあとづけたことです。今後尼崎市などで同様の記録集の刊行が予定されていますが、同書がこれらのうごきに一石を投じることになるのは間違いありません。   (文責・尾崎耕司)

 
震災後の古書市場の動向
 

 現在、サブプロジェクトのひとつとして震災後の古書市場の動向に関する調査を行っています。

 一昨年、史料の巡回調査で被災地を歩いた我々は、史料が処分されていたことに大きな衝撃を受けました。市民がなぜ、史料を処分したのかについて、市民の歴史意識の問題や、歴史学研究者と市民の意識のギャップの問題については一定の議論の蓄積を見たと思われます。しかし、所蔵者が史料を処分した理由を検討してみると、市民と歴史学研究者や史料保存機関の関係だけで論じられない問題もありました。それは、「骨董商が買いに来たから売った」というケースです(寺田匡宏「被災地の歴史意識と震災体験」『歴史科学』146、1996年参照)。

 震災後、被災地には全国から骨董商が押し寄せたといわれています。事実、巡回調査で被災地を歩いた我々は、骨董商の噂をしばしば耳にしました。

 震災発生から2年が経過し、古書店の発行する古書販売目録に、阪神地域の古文書を目にすることが多くなってきました。これらが、震災関連のものか、速断は出来ませんが、震災後の古書市場の動向に関しては、情報を集約し実態を解明することが必要だと考え、調査をはじめました。

 現在は、古書店の発行する目録を収集しての全体的な市場動向の把握、被災地の自治体への調査などを行っています。また、古美術商への聞き取りも試み、古書の市場での流通ルートの確定作業にも取り組んでいます。これらの作業を通じて、史料保存関係者から、古書市場の問題に関する意見交換の場が必要との声が寄せられています。また、この問題は、被災史料の問題であるだけでなく、昨今の「お宝」ブームなどとも関係する、現代社会における史料保存の基盤に関わる問題だと考えます。本調査がある程度まとまった時点で、史料保存関係者や古書業界関係者を交えた情報交換会を開催することを考えています。

 現在、調査を進めているところです。何か情報がありましたら、史料ネット事務局までお知らせ下さることをお願いします。            (文責・寺田匡宏)

特集!!
史料ネットに寄せられた声から
 

☆日本史研究会特設部会での議論も受けて、ネットの活動に対する意見・感想をご執筆いただき ましたので、紹介します。引き続き投稿も受け付けています。今回の号に間に合わなかったも のは、次号以降への掲載を検討させていただきます。

★特設部会参加者からの感想文も、あわせて紹介します。

☆これらの意見は、史料ネットの経験をまとめ、また今後の活動を考えていくうえでの参考とさ せていただきます。なお、日本史研究会特設部会については、『日本史研究』5月号(No.417) に報告と討論要旨、批判が掲載される予定です。あわせてご参照ください。 

★紙面の都合で元の原稿を部分的に編集・割愛している場合があります。ご了承ください。 

 
 
特設部会「阪神・淡路大震災と歴史学」への感想 
河島 真 (育英高校教員)
 

一言で言えば、阪神大震災対策歴史学会連絡会・歴史資料ネットワーク(略称=史料ネット)の活動は、戦後の歴史資料保存活動の、ひいては戦後歴史学の大きな画期であるとの感想を持った。第一に、従来の歴史資料保存活動が埋蔵文化財や歴史的景観などに偏重していたのに対して、史料ネットの活動は文献史料の保全にも力を入れたこと、第二に、これまで国宝指定や重要文化財指定などの形で歴史資料を序列化し、序列の高いものを優先的に保全・管理してきたのに対して、史料ネットでは市井に埋没する生活史料の救出・保全に努めたこと、第三に、歴史資料を単に救出・保全し研究者の研究材料として提供・利用するだけでなく、現地説明会・講演会・展示会などの形で歴史資料を現地の人びとと「共有」する方向性を重視してきたこと、などの点においてである。

特に歴史資料を現地の人びとと「共有」する方向性を重視してきたことは、高く評価されて良いだろう。と言うのも、特設部会報告の中でも示唆されていたように、現代都市においては、歴史認識と歴史意識が市民と行政とを接続する貴重な媒介項になっていると考えられるからである。周知のごとく、現代都市において都市行政はもっぱら専門官僚の専行事項として処理され、本来地方行政においても主権者であるべき市民はそこから隔離される傾向にある。あるいは、都市行政と市民とのつながりが、地域利益などの個別利害関係的なものに矮小化されているとも言える。こうした中で、市民がみずから生活する地域の歴史に対する認識を深めることは、市民自身が主体性を持ってその地域の将来を展望し、総合的な町づくりを進める礎となる。言い換えれば、ともすれば個別利害関係的な利益要求に結びつきかねない狭隘な地域ナショナリズム(偏狭な愛郷心)を克服し、広い視野に立って未来を創造していくエネルギーとなるべき地域アイデンティティの形成が、ひとつには歴史認識・歴史意識の構築によって導かれると考えられるのである。京都の古都景観保存運動ぁ 篆椋匕紊凌生佑猟・鼎・蟇親阿覆匹・・楼茲領鮖砲鮨兇衒屬覬弔澆鮟佝・世箸靴討い襪里篭・海任呂覆ぁ#・鹿仂 斜 A棉芭就辺嘖鋲戡>ぢ しかし、地域の歴史資料を素材とする歴史学の学問的成果が住民にただちに受け入れられることを期待することは難しく、まただからと言って歴史研究者がその専門性を放棄して地域社会・地域住民との接点にばかりこだわり続けることが良いというわけでもない。歴史の奥深い所に潜む大きな流れをつかみ取り、それを理論化・法則化するという歴史学者固有の専門的役割は、たとえ住民との歴史資料の「共有」が如何に重要な課題であるとしても、やはり固有の役割として存在する。ただし、誤解を恐れずに言えば、住民と歴史資料を「共有」しようとする動きを「急ぎすぎる行動」とたしなめ、歴史学者はまずその専門的役割にひざまずくべきであるとする見解−当日の質疑・応答の中にもこうした見解に近いものがあったように思えた−は、これまでの歴史資料保存運動あるいは歴史学運動の課題や、今回の史料ネットの活動から得られた教訓を、結果として軽視ないしは無視することにつながりかねない。重要なことは、歴史学者がその固有の専門的役割と住民との歴史資料の「共有」という二つの課題の間に張りつめる緊張関係を絶えず自覚し、かつその緊張関掘 犬某覆鵑膿箸魄僂佑覿・だ嫻ぐ媼韻鮖・弔海箸任呂覆い世蹐Δ・8罵C寮賁臈・魍笋鮹瓦ξ・譴魴・・靴弔帖・瓜・暴嗣韻箸領鮖忙駑舛痢峩ν@廚箸い・て颪焚歛蠅房茲蠢箸發Δ箸気譴燭箸海蹐法∈2鵑了卜船優奪箸粒萋阿虜蚤腓龍儀韻・△襪里任呂覆い・噺朕妖・砲牢兇犬拭#・鹿仂 斜 A棉芭就辺嘖鋲戡>ぢともあれ、阪神・淡路大震災の発生から二年の月日が経過した今、史料ネットが今後どのような活動を続けられるのかに、歴史研究者からのみならず多くの人々の関心が寄せられることと思う。

  
 
史料ネットの活動から今後の歴史学・史料保存運動を考える
保立道久 (東大史料編纂所)
 

 私は、ちょうど大震災の時、歴史学研究会の事務局を担当していた。地震の直後に学会や神戸大学の人々と連絡をとり、連絡会に参加し、できる措置はしたつもりではあったが、しかし、大会前、歴研の会務に様々な問題があって、週に4、5日は事務所に詰めているという状態で、結局、神戸を訪れ、まだ生々しく残っていた惨状をみたのは、9月、神戸大学への集中講義の時になってしまった。宿舎で、夜、友人の死去の連絡をうけたこともあって、やはり直接に史料救援活動に参加するべきであったという思いとともに、この時の神戸の印象は忘れがたい。以下は、その時の市民講座で「福原京とその時代」という報告をして以来、宿題にしたままの問題である。

 報告の前日、私は兵庫駅から南に歩いて大輪田泊の故地を訪ね、そこが一種の寺町の様相をもっており、そしてどの寺社も震災の被害をうけているのをみた。一遍の墓所である真光寺や、大輪田泊築港時からの寺院である能福寺、そして神戸駅のすぐ南のえびす神社などは報告の準備との関係でも興味深いものであったが、特に意外で興味深かったのは南端の清盛塚と琵琶塚であった。というのは、集中講義の間に、神戸大学の奥村氏から森田修一氏の論文「庄山『平盛俊墓』を興す」(『研究紀要、百耕』創刊号、1992年)を教えられ、戦前の神戸市民が平家や清盛に愛着心をもっていることを知ったからである。清盛塚は、その神戸市民の意識の物証であるということになる。

 森田氏は神戸市民が平家一門に対して抱いている深い愛着を論じておられるが、私も、そのような歴史文化をどう受けつぐかは重要な問題であると思う。もちろん、神戸の人々の平家びいきは一種の地方顕彰意識であろうから、現代歴史学が、それをそのままうけつぐ訳にはいかず、手続きとしては、第一に源平の物語を中世の政治史・社会史の中に位置づけ直すことが必要だろう。市民講座の宣伝をしたところ、地元の新聞記者が「福原京」の存在をしらず、「神戸に都があったのですか」という反応であったそうだが、平家の物語は知っていても、それを平安時代末期の政治史との関係で了解している訳ではないのが一般である。

 そして、第二は神戸市民の平家びいきや、それを示す森田氏が取り上げた庄山の盛俊塚のような遺跡・遺物を考えるためには、中世史と近世史・近代史の共同が必要なのではないかということである。平家びいきという感情や物語は、地域の歴史的な文化であって、歴史学とイコールではないし、歴史学はみずから物語を語ろうと考えてはならない学問であるとは、私も思う。しかし、「神戸における平家びいきの生成と展開について」というようなテーマで歴史具体的な検討を行うことは、歴史学の一つの仕事である。現代の学会の中では、専門分化がきびしく、中世史研究と近世史・近代史研究の共同というようなことはなかなか具体的に考えられることではないが、しかし、このような問題は、たとえば地域史研究にとっても重大な論点であるのではないだろうか。

 もちろん、このようなことは通常時では小さな問題である。しかし、10年ほど前、二つの遺跡保存運動に関わった時の経験からすると、運動にとっては異なる時代の研究者の協力が決定的な意味をもつことがしばしばである。それはなかなか実現できることではないが、そういうことがなくては、歴史学はいつまでも成熟しないのではないだろうか。

 それは、文書史料・文化財の登録の背景に存在する「地域文化登録」とでもいうべき作業になるのではないかと思う。史料ネットの活動の中で、やはり何といっても大きいのは、近現代史料の調査・保存問題が一括して本格的な形で議論されるきっかけとなったことであるのは衆目の一致するところだろう。それは近現代史史料の存在形態自体の検討に波及し、その存在形態を規定している社会構造そのものの変革の展望を歴史学に内在的な問題として検討せざるをえないという問題にも関わってきているようである。しかし、今後の史料保存運動・アーキヴィスト運動の社会的・文化的説得性を担保するためには、前近代史研究者の位置も大きい。そして、運動者の側は、前近代史の研究者に対して、100年後に研究しても同じことよりは、そろそろ、今やるべき調査・仕事と研究と運動を前進させるべきだという声を強める権利があると思う。

 
 
“なぜ、史料ネットの活動が可能になったか”を考えるべきでは?
塚田 孝 (大阪市立大学)
 

 阪神大震災のあと、被災史料救出を行う史料ネットの活動が関西の歴史四学会を中心に開始された。私が委員を務める大阪歴史科学協議会もその四学会の一つとして活動に参加していた。はじめは何をどうしていいのか分からない手探りの状態から、徐々に軌道に乗り出したが、そこでの院生ら若手研究者を中心とした活動は目を見張るものがあった。私はそれを間近に見ながら、何か史学史上の大きな出来事に立ち会っているような気がしていた。それと同時に、院生たちが繰り返し活動に参加するうちに、何かと院生らにしわ寄せがいき、自分の研究のことなどで矛盾も発生してきていた。このような状況は、大阪歴科協の委員会での議論にも直接・間接に反映していた。私には、この状況を乗り越えるためには、この活動の意義を自分たち自身で深く理解する事が大切だと思われた。そこで大阪歴科協の委員会では、意識的に史料ネットの意義について議論をするようにし、95年12月の例会でも史料ネットのことをテーマに取り上げた(『歴史科学』146)。いろんな議論をしたが、それぞれに意義づけを深めていけたと思う。

私自身は史料ネットの活動には数度参加したに過ぎず、とても史料ネットについて全面的に評価することはできないが、史料ネットの活動には画期的意義があると考え、96年に担当した史学概論の講義の中で1コマ分だけだが、話をした。この史学概論は日本史・東洋史・西洋史からのオムニバス方式の授業なのだが、私は日本史の立場から歴史学と史料について話すことになっており、その中で取り上げたのである。

 それまでに書かれていた史料ネットの中心にいる人たちの論稿を読みながら、史料ネットの経過を紹介し、いくつかの論点を考えた。そこでしばしば話題になっていたのは、ひとつは、活動を開始するのが遅すぎたのではないか、あるいは逆に、この時期に史料のことを言うのは被災した人達の感情に合わないのではないか、という相反する思いの対立であり、もうひとつは、回ってみると既に史料が捨てられていることが間々あり、市民の史料についての意識と歴史研究者のそれが乖離しているという点などである。意義を感じているからこそ活動している訳だが、文面では、どちらかというと活動の問題点が前面に出ているように思われた。おそらく活動の中心にいる人達は、自画自賛となることをはばかった面があるのではと推測する。同時に、やや性急な発想もあるのではないかとも思われた。ここでは、講義で取り上げた論点のうち、その点がより強く現れていると感じられた後者の点にしぼって少し考えてみたい。

 性急と感じたのは、史料についての市民と研究者の意識の乖離という点に関わって、これまでの歴史学の無力あるいは市民の関心に歴史学が応えていないということのみが強く指摘されていたからである。しかしこの点はもっときめ細かにかつ歴史的に考えるべきではなかろうか。

 今、近世の村方文書は(すべての人とはいわないが)多くの人が、大事なもの(史料)と言われれば同意するであろう。しかしこのような認識はずっと古い時期からそうだった訳ではない。戦前、皇国史観が支配的だったころ、中村吉治氏が卒業論文で農民史をやると言った時、平泉澄から“百姓に歴史があると思うのは、豚に歴史があると思うのと同じだ”と言われたという(中村吉治「農民史探求と社会史」『歴史評論』410)。このような時期に近世農村史は研究されなかったし、村方文書は史料としての価値を認められていなかったことは言うまでもなかろう。戦後になって農村史料の調査が行われ、村方文書を用いた農村史研究が進められた。これには、農地改革その他による農村社会の変貌の中で農村史料の散逸が危惧された事が引き金になったであろうが、また一方では歴史観・歴史意識の転換があったことは言うまでもない。今日のレベルから見れば、当時の史料調査に限界があったと言うことはたやすい。しかしここから始まった村方文書を用いた歴史研究が、村方文書の史料としての価値を共通認識にしていった! $海箸鰐世蕕・任△蹐Α・修慮紂⇔鮖妨Φ罎療験・販鮖忙駑訴歛戸・儺ヾ悗篶鮖坊惑酳・曚糧・犬涼罎・蕁・従・n燭諒・,覆瓢卜祖敢困諒・,砲弔い討睫虜・・海韻蕕譟⇒諭垢雰亳海・濱僂気譴討C拭・修譴蕕・泙振畧い梁縞・現颪世韻任覆・・畍渋紊陵諭垢癖現颪砲弔い討盪卜舛箸靴討硫礎庸Ъ韻魏罅垢隆屬膨蠱紊気擦討C燭隼廚Α#・鹿仂 斜 A棉芭就辺嘖鋲戡>ぢ今回、史料ネットの活動の中で問題になっている市民と研究者の史料についての理解のギャップという点について考えてみよう。ここでは史料一般として問題とされているようだが、近世以前の史料と近代以後の史料では認識に落差があることは間違いなかろう。それは近代史研究の現状、特にその史料の利用の在り方と関係があるのではなかろうか。近代史研究で、個人や団体の所蔵史料がいまだ十分利用されていないのではないか。すなわち、史料としての価値認識は、その史料を用いた歴史研究の発展があって初めて共有されるものであろう。その意味で、市民と研究者の史料についての意識のギャップを埋めるのには歴史研究の発展が必要であり、そのためには一定の時間が必要なのである。

 このように考えると、史料ネットの活動の中から歴史学の(ひとつの)課題が提起されているということであり、性急にこれまでの歴史学はダメだったという結論にはならないであろう。むしろ歴史学や史料論の発展が、あるいは歴史学にかかわる者たちの集団的な力量の蓄積が史料ネットの活動を可能にしたと言えるのではなかろうか。同時にまた、歴史的に見ることで、この史料ネットの活動を歴史学の課題を問い直す契機とすることも可能となるのではないか。それにかかわって、当然のことではあるが、ある家から出てくる史料は近世、近代で区別されないということを多くの近代史の若手研究者が身をもって経験したことの意味は大きいといえよう。このことが先に触れた近代史研究の在り方を問い直す契機となると思うからである。

 史学概論で、史料についての市民と研究者のギャップという論点についておおよそ以上のようなことを話したのであるが、さらに具体的に、史料ネットの活動がなぜ可能になったのか、その史学史上の意義はどこにあるか、を考える必要を感じていた。それによって、この経験が今後に発展的に受け継がれ、また多くのエネルギーを投入した院生を中心とする若手研究者たちの自己確認につながると思ったからである。

 昨年の特設部会での報告・討論でも、どちらかというと問題点の指摘が前面に出ているという印象をもち、“なぜ、史料ネットの活動が可能になったのか”という視点からもっと討論すべきではないかと発言したが、それはここまで述べてきたようなことを考えていたからであった。今後の総括の中では、このような方向からの議論もされていくことを期待したい。

 
 
歴史研究者、一歩前へ
山本幸俊 (新潟県立文書館)
 

 この二年間、地方にあって、遠くから史料ネットの活動が気になってきた。未曾有の大震災後、我が国で初めて展開された歴史資料救済活動は歴史研究者のボランティアとして始められたのに、はからずも歴史研究者の在り方を問うことになっている。それは市民との乖離を突き付けられたことで歴史研究者にとって重い現実となっているようだ。「歴史学とは何か、どうあるべきか」。戦後、民主的歴史学が最も気に掛け、とうに解決してきたと思い込んできた問題が、実は誰にもよくわかっていなかったのではないだろうか、とさえ思われる。戦後歴史学の「ゆらぎ」は、今、史料ネットの活動を通して根本から問われだしたといえまいか。寺田匡宏氏が「被災地の歴史意識と震災体験」(『歴史科学』146号、96年)の最後で引用した、「パパ、歴史は何の役に立つの、さあ、僕に説明してちょうだい」というマルク・ブロックの有名な言葉が改めて新鮮である。

 私は何も「行動」できないまま、史料ネットの企画や関係者から発せられる言葉や文章に地元の現状を重ねてきた。そこでつくづく思うことは同じような被災史料の救済活動を可能にするような研究者の連帯や力量があるだろうかということである。

 新潟県においては、70年代から80年代前半まで盛んであった自主的な研究会活動が90年代には殆ど下火となった。研究者が高齢化してきたためとか、職場での地位や仕事の変化が自由な研究活動を出来にくくしているなどとよく言われるが、私は自治体史編纂に引っ張り続けられていることも直接的な原因であると思っている。70年代後半から90年代の現在まで新潟県史を始めとした市町村史編纂が全盛で殆どの研究者が動員された。私自身二つの自治体史に関わり、そこで多くを学んだが、やはり圧倒的な本務もあり時間に追われたという印象は否めない。この20年余、自治体史編纂が県内の歴史研究に及ぼした成果は大きなものがあるが、反面その負の部分も十分に検証すべき時期にきているように思われる。現状の研究者は自己のテーマや地域に個別分散化し、全体の関わりや他の研究への関心が希薄となり、手弁当の研究会活動の力が削がれてきた。こうした研究状況は他の地方にもみられるのではないだろうか。

 そのことと、史料ネットの議論を聞いていてさらに思うことは、このような現状を形成している本質的な問題がもっと別にあるのではないかということだ。かつて歴史研究に情熱と価値観を得て、「生活者」としての研究者が多数あり、同じ志に集まって幾つかの研究会が始った。多少の犠牲を強いても研究会に集まろうとする意志は、学究的な興味だけでなく、研究会活動をとおして、その先に、社会の中に立つ自分を見ていたのではないだろうか。それぞれの研究テーマは別でも、歴史学により連携する社会的意味を感じていたはずである。それがそうではなくなってしまった。歴史研究において、日常の自己を証明するということが次第に困難となっていることに研究者は戸惑い続けてきたように思われる。こうして、多忙化と管理化の増すなかで、自律的で主体的な研究活動は「生活者」的研究者から遠退くばかりとなってしまった。深谷克巳氏も指摘するように高度成長後は「本当の在野学者はほとんど姿を消し」た(「戦後50年と歴史学の現在」『人民の歴史学』127号、96年)。このままでは、地方! $砲△辰椴鮖妨Φ罎鮃圓て世襪里聾造蕕譴心超C砲△訖佑世韻砲覆辰討靴泙Δ隼廚Δ里蝋佑┣瓩・世蹐Δ・・修琉嫐・如・什漾△箸蠅錣叡楼荵妨Φ罎梁姑櫃・笋錣譴討い襦2歛蠅粒某瓦藁鮖妨Φ羲圓房匆颪箸隆悗錣衒・・+・えなくなっていることにあると思われる。

 日本史研究会特設部会の大国報告で示された実践例や「現地利用主義」の提示は、まさにこの課題に答えようとするものであり、歴史研究者の市民社会への関わり方を具体的に実験し始めたものであった。その方向は、地域に密着した市民参加の取り組みに歴史研究者が目に見えるように、主体的に、参画するということである。その際、地域に残された歴史資料はその有効な媒介となるということであろう。

 一方、地域の歴史資料は日常的な災害や都市化・過疎化等の地域変貌と世代交代のなかで日々散逸・滅失の危機にさらされている。各地に設置されている文書館や博物館等による日常的な保存活用事業も始められているが、まだまだ行き届かないのが現状であるし、取り組みの差も機関によって様々であり、行政業務としての隙間も多い。歴史研究者は「史料を大事に」との一般的な気持ちは誰でも持つが、日常的にも急速に進むこの史料散逸動向は一般論で座して待つだけではどうにもならないところまできている。史料ネットの教訓は一般的な「ためらい」を越えて「歴史研究者、一歩前へ」出て「行動」したことが、地域や市民を興し、社会「状況」を変え得る方向を見付けつつあるということである。このことはまだ歴史学界全体の共有認識には成り得ていないが、どうか孤立することなく、今後の活動の継続と発展を心から願うものである。

 
 
地域史と資料保存ボランティア
田中淳一郎 (京都府立山城郷土資料館)
 

 新聞報道によると、阪神・淡路大震災以後に、仮設住宅で孤独な死を迎えられた方が 130人にもなるという(1997年2月末日現在)。「歴史資料」の救出どころか、地域住民の命の救済もできない地域社会を作り上げてきたのか、という思いが念頭を去らない。今回の震災を教訓に、震災後に備えるのではなく、震災前から地域で歴史を学ぶ者として、地域資料館で働く者として何をしておかなければならないのか、考えてみた。

 「史料ネット」の活動のなかで、市民と研究者との間の意識のギャップということが常に言われている。これは歴史資料に対する意識のずれということであって、歴史意識のずれが問題なのではないだろう。議論するときに、混乱があるかのように思われる。歴史資料に対する意識のずれについていえば、研究者(活動参加者)の側に古文書を優先的に歴史資料とする姿勢があったことが内部からの批判としてもあるように、農具や日常雑器を含めた民具、写真あるいは震災の被害を受けた民家・建物までを、地域の歴史を解明するための歴史資料として考える視点が、研究者の間に弱かったのではないかと考える。文献以外のものの歴史的な変遷を含めてはじめて、総合的な地域史が描けるのだ。

 この観点からみると、資料保存の議論としては、全ての資料を残すことが前提になる。しかし、現実には物理的にも経済的にも、全ての資料を保存・管理していくことは、困難である。自治体の文化財保存担当職員は、日常的にこの問題に頭を悩ませている。担当者としては、この家のこの資料は残すが、あの資料は廃棄してもかまわないとは、簡単には言えない。だが実際には、震災後のように時間的な余裕のないままに、残す資料の選択をしなければならないのである。資料保存の責任を自治体のみに委ねるのではなく、地域の歴史資料は地域で後世に伝えることを、その方策を含めて、真剣に議論していくべきであろう。なおこの文では、「資料」はあらゆる「もの」、「歴史資料」は地域社会もしくは研究者等によって歴史的価値が付与された「資料」の意味で用いている。

 阪神地域に基盤を置くマスメディア神戸新聞社・サンテレビジョン・AM神戸の共同制作によるCD-ROM「最初の一週間<阪神・淡路大震災>」には、1996年末までに発表された厖大な震災関係文献リストが、所蔵機関別に収められている。このリストには、震災直後に張り出された愛犬を探すチラシまでが掲載されていて、将来歴史資料になりうるものとして、あらゆる資料が集められたことがわかる。全ての震災記録を残そうという運動の着実な成果として、興味深く眺めている。もっともこのリストは、タイトルの羅列であり、検索も印刷もできないので、本当に眺めるだけのリストである。

 「阪神・淡路大震災と歴史学 パート2」が催された前日に、山城郷土資料館では恒例の友の会会員による研究発表交流会を行なった。会員個人による地域の惣墓の墓標の調査に基づく、惣村と惣墓の成立と発展の歴史を考える内容の研究であった。この交流会に参加した人達にあるのは、地域の歴史資料を丹念に集めようという熱意と、歴史が好きだという気分である。彼らは地域の歴史を学ぶことを楽しんでいるのだ。

 「パート2」の会場で感じられなかったのが、この「楽しさ」であった。印象批評になってしまうが、史料ネットのボランティア活動は、震災により歴史資料が滅失してしまうという危機感から始まり、現実に役立つ歴史(学)をという使命感に活動目標があるかのように感じられる。果たして、危機感や使命感の強いボランティア活動が長続きするのだろうか、という危惧を抱いてしまう。史料ネット参加者の一部にあった参加への強制感も、その使命感の強さに原因があったのではないだろうか。古文書を整理するのが楽しいから、ボランティア活動が永く続けられるのではないだろうか。

 現在、当資料館でも、普及活動への協力を中心に、ボランティアが行なわれている。また各地の地域博物館・資料館でも、ボランティア制度導入が検討されている。地域に根ざす資料館では、ボランティアのなかに、地域資料保存活動を組み込む必要があるのではないか。それは、石造物や民家の悉皆調査や古道の踏査など、各地域の実情でさまざまなスタイルが考えられる。地域資料館が、日常的な資料保存活動の拠点となれるよう、まず努力すべきである。そのうえに、地域住民がボランティアとして活動しておれば、緊急時にも柔軟に対応できるのではないだろうか。今回の史料ネット活動で培われたノウハウを各地に広げていくときにも、地域資料館という基盤があると、主張しておきたい。そのためにも、史料ネットには、活動経験に基づく資料保存等に関する提言を、一刻も早く発表されるよう繰り返しお願いしたい。災害は明日にでも起こるかもしれないのだから。

 
 
「被災史料保全活動」によせて
細井 守 (藤沢市文書館)
 

 衝撃的な阪神・淡路大震災から丸2年がすぎました。その間、たゆまずに続けられている「被災史料保全活動」は、史料保存史上画期的な活動として評価しております。遠くから眺めているだけの身としては、何を言っても現場との温度差は埋められそうにありませんが、ちょっとだけ感じたことを述べさせてください。

 私は関東の地方自治体で史料保存の仕事に携わっている者ですが、明日は我が身の立場として、最近、「自治体の責任」ということを考えています。自治体(行政)は自らの行政文書と同じように、自治体地域及び関連の史料についても、現在ならびに未来の住民のために保全していく責任があるのではないか、そうした理念を確立していくべきではないか、と思うのです。

 民間所有の史料について、その史料をどう扱うかは所有者の自由でしょうが、保存が困難になったり保存する意志がなくなったりした史料については、行政(あるいは地域団体)側で地域のために残していくための手だてを講ずることが必要だろうということです。

 私の属する自治体がこうした理念を明確に打ち出して仕事をしていると言うわけではありませんが、あいまいな日本的存在としての「文書館」には、こうしたニュアンスが多かれ少なかれ含まれているようにも思います。一応断っておきますと、これが(公)文書館の第一義的な仕事だと言うわけではありませんし、まして文書館でなければ出来ない仕事だとは思ってはいません。何処でどうやるかは、現在及び未来に対して自治体が総体として考えるべき事柄だと思います。

「被災史料保全活動」は「行政がやらないから、やっている」面が大きいようです。被災史料を目の前にして、「やらないから、やる」こと自体はある意味では当然かも知れませんが、あわせて、何らかのかたちで行政に「やらせる」ように仕向ける運動をこそ、活動の中心に置くべき時期に来ているのではないでしょうか。もちろん所蔵者、地域住民と手を携えてです。

 先の「日本史研究会大会」で採択された「決議」は、まさにその方向に向けての大きな一歩であるかとは思いますが、「歴史資料ネットワーク」の取り組みとしてはどうなのでしょうか。「被災史料保全活動」は、いずれ「地域史料保全活動」に収斂されていくべきものであろうと思いますので、最終的にはどこかで地域(自治体等)に繋いで行かなければならないでしょう。

 被災の状況下で「史料ネット」の果たした役割は大きなものでしたが、これからもうひといき、その落とし所の工夫を期待したいと思います。

 以上、活動の現状からピントのずれた話になってしまったかも知れません。実際の事態に遭遇したら何ができるか、実に心許ないことも確かです。「その時」に備えて、研究者は? 市民は?自治体職員は? と、さらに議論を進めて行くべきことだけは確かだと思います。

 
 
特設部会に参加して
佐賀 朝 (大阪市立大学)
 

 日本史研究会の大会の場で特設部会を企画した目的は、日本史学史上、例を見ない形で展開された今回の被災史料救出活動の経験をなるべく多くの歴史研究にたずさわる人たちの間で共有し、この活動を歴史的に位置づけるとともに、現代歴史学の課題について考えていく議論の輪を広げる、ということであった。司会として当日の議論を聞き、またそれに対して寄せられたいくつかの感想などを見て考えたことがあるので発言したい。

 当日の討論に対する感想としては、深まらなかった、散漫だったとの意見が多く聞かれた。司会をつとめた者としては、十分議論の内容を深めていくような進行ができなかった力不足を、参加していただいた皆さんにお詫びしたい。ただ、当日塚田孝氏から「なぜこのような活動が可能になったのか」という視点での活動の総括こそが必要なのではないのか、との発言があったが、企画した側が用意した論点や議論の中身にも色々と反省すべき点があったように思われる。紙幅がないので一点に絞って私見を述べよう。

 すなわち、当日の三報告いずれもが主要な論点として提出し、また筆者も含め関係者が繰り返し強調してきた論点でもある「史料をめぐる市民と歴史研究者との意識のギャップ」という問題についてである。われわれが被災地で活動を進めるなかでこのギャップの問題を頻繁に、また生々しく感じたのは事実であり、ギャップの存在とその重大性を今でも否定するつもりはない。しかしながら、このことをあまりに強調し、一面化していなかったか、と思うのである。

 例えば、所蔵者自身が史料を捨ててしまったケースが多かったことにわれわれはかなりショックを受けたが、他方で、「捨てた」という事実自体の中身をていねいに吟味する必要があるし、「捨てた」という事実から市民の歴史意識をストレートに一般化することにも問題があるのではないか。実際、史料を捨てた状況や要因にはさまざまなケースがあったし(寺田匡宏「被災地の歴史意識と震災体験」『歴史科学』146,1996年)、「捨てた」と言ってもどんな史料を捨てたのかがはっきりしないケースも実は少なくない。

 また、そのことと関わって、巡回調査などの場でわれわれが「史料」とはどんなものであるのかを説明するのにたいへん苦慮した、という事実についても、市民にわかりやすく説明する言葉自体にわれわれが貧困であった、との反省に結びつけられて、歴史研究と市民の接点の不十分さとして語られることもあった。しかし、「史料」とは何で、それを保存することにどのような意味があるかについて、初対面の、しかも歴史の専門家ではない市民に即座に説明できると考える方にむしろ無理があるのではないか。「古文書」といえばよいのか「文化財」かそれとも「古いもの」と言うのがよいのか、現場で種々悩んだこと、そのことの意味は決して軽くはないと考えるが、うまく説明する言葉がなかなか見当たらなかったことから、あまり性急に歴史学の限界を云々するのも問題であろう。

 また、われわれが直面したギャップは、日常予想していたものよりも確かに大きなものであったけれども、歴史的に見れば、それは少しずつは埋まってきているとも見ることができよう。大国氏のコメントが、戦後の宝塚市域における歴史資料調査の展開を具体的に検討するなかで指摘したように、1970年代の自治体史編纂事業に伴う、広範囲でかなりの程度網羅的な調査のあったことが、われわれが地域に入って被災史料調査を進める上では大きな意味を持った。そうした自治体史の問題点や限界を今われわれが指摘するのはたやすいことかもしれない。しかし、阪神間のほぼ全ての自治体でこうした編纂事業と調査が行われていたことは、当然のことながら、在地の史料を用いてその地域の住民の歴史を明らかにすることを重要な学問的課題として定置していった戦後の歴史学の発展なしには考えられまい。捨てたケースも少なくなかったが、巡回調査などで直接話をした市民の多くは、こうした地域の史料を残すことが大事なのだというわれわれの主張に同意してくれたと言ってよいと思う。そのように考えれば、当たり前のことかもしれないが、地域の察 卜舛鮖箸辰凸噂阿領鮖砲鯡世蕕・砲垢襪海箸・鮖乏悗亮舁廚焚歛蠅琉譴弔任△蝓△修里海箸・鮖砲鮴賁腓砲呂笋蕕覆せ毀韻隆屬任發曚楙鐚韻砲覆辰討C討い襦△箸い・魴錣・△辰討海宗∈2鵑里茲Δ並腟・呂之兮嚇・蔽楼荵卜舛竜濬弌Ψ,蟲・海軍萋阿浪椎修砲覆辰拭△箸いε世鬚發辰班床舛靴討發茲い里任呂覆い世蹐Δ・#・鹿仂 斜 A棉芭就辺嘖鋲戡>ぢ こうして、なぜ可能になったのか、という視点で考えてみると、われわれの運動の意味や可能性、またそこから何を引き出し、発展させるのか、について今まで議論していたのとはやや違った点や局面も見えてくるように今の私には思われる。そこで、30年くらいの長い目で見て研究を進め、発展させてゆくことによって、被災史料を残したことの意味がより深いところで明らかになるはず、という趣旨の鈴木良氏の発言の重要性が留意されねばならない。われわれは目前のギャップを直視するだけでなく、住民とのさまざまな共同作業や被災地での地域史研究の息の長い深化・発展を通じて、歴史や史料そのものとそれをめぐる意識の共有に少しずつ近づいていくことが可能なのであろう。

 当日司会もし、企画を用意した側に属していた人間としてはやや無責任な言い方になったかもしれないが、特設部会の前後のさまざまな議論を通じて自分なりに感じ、少しずつわかってきた反省点として、あえて意見を述べてみた。

このほかにも当日の報告や討論をめぐっては色々と意見があるが、別の機会に述べたい。ともかくも、こうした形で部会が開かれ、150人以上の人たちが参加したことは画期的な意義を持つだろう。今後も、さまざまなところで史料保存や市民の歴史意識と関わって歴史学の課題が議論される場がもたれるよう期待したい。

 
 
日本史研究会大会特設部会参加者の感想文から
 

■荒武賢一郎(花園大学大学院)

 史料ネットのような大がかりな史料救出・整理保全運動は、史上初めてだと思います。私自身は、数回資料整理をお手伝いしたくらいで、救出活動に直接参加しておりませんが、当初から頑張ってこられた人々の行動は、歴史界に大きな成果をもたらしたと思います。質問としては、これから史料ネットはどのような方向に進んでいくのか、それがもっと詳しく知りたいと思います。そして私も、史料ネットの活動に、出来るだけ参加していきたいと思います。

 奥村報告について考えると、[2]の歴史意識の問題で国体観念について論及し、神戸市史で検証していたが、これを見る前に、自治体史とはどういうものかを定義付けしなければ議論にならない。国民的歴史学運動の点で、奥村氏自身の考え方が知りたい。

大国さんの展望で、在野アーキビストというように区別するのはおかしいし、アーキビスト全体を養成するという点での大国氏の構想が知りたい。

■伊藤俊一(名城大学)

 歴史研究者や、行政担当者を養成する大学・大学院教育の中に、今日議論したような問題を、どのようにして取り入れるかについて考えなければならないと思いました。

■逵 和陽(岡山大学)

 史料ネットがこれほどの規模とは思わなかったので、市民との関係を問うだけのことがあるなと思った。ただ史料ネットのブレーンは、本当に市民と対等の立場なのだろうか。意識のズレは、立場が違うし生計の立て方もちがうので、当然ではないだろうか。何となく上の意識を持って、導いてあげているという気がした。もちろん、歴史学が実生活で活動しているということで素晴らしいと思うし、本当に歴史学を考えているのを見て、かなりの刺激になりました。僕はまだよく分かりませんが頑張ってください。

 市民と研究者の歴史意識のギャップの議論では、ギャップを認識し、それを埋めるのを意識してしまうのではなく、どういう風にそれを埋めてきたのかというのをもっと言ってほしかった。生活者という表現を使うことで研究者が近づいたような感じを持たしているが、生活者に歴史資料がなぜ重要か、どのように利用していけるのかを、ちゃんと伝えられているのか疑問に思った。危機意識は人を動かすが、急進的になってしまい、本来の目的からずれてしまう恐れもあるのではないかと思いました。

■大村拓生(大阪市立大学大学院)

 文書に偏りすぎたのでは。蔵の中にあるのは文書だけでなく、民具・農具、様々な美術品(調度品、絵画など)が一体となって存在しているのであり、そこから文書だけを取りあげるのは、考え直すべきではないか。何を持っているのかを確認し、位置づけるのも歴史学の課題としなければならない。そうしないとバラバラになってしまう。最近の「お宝」ブームは、金で価値序列を決定しており、その問題性を認識していくべきだろう。調査等も、文書だけでなく、全てのものを対象とした体制を構築していく必要があろう。そのために、様々な分野の研究者との協同を組織していかないと、全体としての歴史をとらえられないのではないか。

■加藤幸三郎(専修大学)

 粘り強く、苦労を乗り越えて保存運動を担われ、進めてこられたことに深く敬意を表します。運動を通じて、神戸の歴史を改めて見直し、再検討されるのは有効な分析視角だと確信します。

 横浜という“開港場”との共通性なり、逆に関東大震災後の“二港主義”あるいは輸出港横浜への代位又は代行という視点では、関わらないのでしょうか。その前提には、戦前の日本資本主義の確立・展開に関わる(大阪など紡績業の)原料棉花や機械の輸入なり、(郡是製糸などの)生糸輸出における神戸港の歴史的形成があったと思います。

■金山正子(元興寺文化財研究所)

 史料ネットは当初から独自のスタートを切られて、非常に頑張ってこられたと思います。その活動は確かに、行政と住民の双方に歴史資料についての意識付けをされていったと思いますが、今後、地域の中での歴史意識を成長させ、史料の保存を行政へも働きかけていくためには、住民と行政のダイレクトな関係が必要だと思います。住民と行政の双方の史料保存の自立を促す方向を探っていただけたらと思います(部会での鈴木氏のご意見には率直に賛同します)。歴史研究者の方々は、どうぞ救出した史料を実際に使った研究で住民に還元していって下さい。

 議論の方向性は、筋書き通り(?)にまとまっていました。もう少し出席者のその場での率直な意見が聞きたかったなあと思います(関西の史料保存担当者も多くこられていましたが、発言は関東方面の方ばかりでした)。

■北泊謙太郎(大阪大学大学院)

 市民の歴史認識、及び古文書に対する考え方ということについて知る機会になったことはもちろん、自らの歴史認識についても、大いに考え直す機会となった様に思う。史料ネットの活動については、私も何度か参加させていただいたが、その時に住民の方々から聞いた話の中で多かったのは、「もう少し早く来てくれれば、史料が残っていたのに」というものであった。これは、史料ネットの活動の制約上やむを得なかった点も多かったと思うが、地域住民の歴史認識も深く関係があるように思われる(明治以降の民具や古文書は価値がない、史料として価値があるのは大名や家老などの身分の高い名家の末裔のもの、せいぜい地主・庄屋までが下限...etc)。このようなことから、私は逆に、その「地域」がどのような歴史的経過を経てきているのか、という点について、以前より相当興味が増大したように思われる。

 最後の討論まで残ることが出来なかったので、各報告において少し感じた疑問点を述べておきたいと思います。藤田報告の中で、歴史と文化を生かした「被災地復興」をあげられているが、新聞等で報じられているような自治体主導の都市計画事業に対するアンチ・テーゼとして、歴史学の立場からどのような提言を行えると考えているのか? また、奥村報告では、歴史家と住民との間における歴史認識の共有ということが論点の一つにあげられていたが、具体的にはどの程度まで共有することを考えているのか。また、これは歴史学者と住民双方の歩み寄りの問題として考えておられるのか。

■近藤孝敏(貝塚市郷土資料室)

 私は、関西の史料保存に関わる者なので、史料ネットの活動には注目しておりました(参加が出来ればと思っておりましてが、私が仕事を得ている地域史料の当面の保存に追われ、個人的にはほとんど参加できずに終わり、今でもそのことが自分のこだわりになっています)。残念ながら、史料ネットの活動と近畿圏の史料保存・管理者(アーキビスト)集団との連携を十分つくり上げられなかったことが残念に思われました(私も関係している全史料協近畿部会や歴史系博物館界が、全体として動かなかった原因を我々は改めて考えねばならないと思います)。

 率直に言って、議論の前半はガッカリしてしまいました。史料保全活動の現実的課題からはずれ、地域史料の実際の保存にあたっている保存担当者として、あまりこの議論の意味がわからなかってからです。この議論を聞いて、地域史料の保全に何か役に立つとは思えなかったからです(それぞれの報告は有意味で非常に参考になりました。しかし討論は得心できるものではありませんでした、残念ながら)。歴史学者が何をこの活動から教訓としてくみ上げ、地域史料に関わる主体(研究者が関わった史料への執着すべき点)としてどうあるべきか? という視点に立って、議論を出されたのでは、鈴木良さんほかわずかのように思われて、内心ガッカリしてしまいまいした。現実的に危機感をもって切実に史料保存の今後を考えると、どうしてもそう思われました。

■澤 博勝(福井県立博物館)

 まさにボランティアという形での教員・院生・学生らの史料レスキューは、すばらしいと思う。ただし、私の勤務しているようないわゆる“地方”でこのような事態が生じた場合、どうすればよいか。教員・院生はほとんど存在せず、そういった人々の指導を受けた学生もいない。よって一方で、行政レベルでの制度化ということを急がれねばならないように思われる。

■曽根原 理(東北大学)

 「良いこと」をしていると理解していますが、遠くのことという実感は否めません。ただ、私が学会に来て、この部会に参加したのは、史料ネットの影響の(ほんの小さな)成果なのだという気もします。どういう形になるかはわかりませんが、今日ここで話を聞いたことが、何らかの形で生きていくことがあるかもしれません。

 所詮、自分の立場で意識を持ちベストを尽くすしかないのかとも思いました(諦めではなく)。私の勤務する大学では、キャンパス移転の問題が持ち上がり、関連して、大学は市民の中にいる(ある)必要はないのか、という議論があります。史料保存に限りませんが、学問をどう社会と関わらせるべきか、考えさせられました。

■高埜利彦(学習院大学)

 歴史研究者が史料保存のために心をくだくことは重要で、その意味から本日の企画は意義あるものと受けとめています。1996年7月下旬の近世史サマーセミナーにおいて、史料保存・整理についてのシンポジウムを行ないましたが、歴史研究者(若手)が地域保存を念頭に置いた工夫をあれこれ行っており、シンポは興味深いものになりました。20年くらい前のサマーセミナーでは、史料保存に関する認識は極めて希薄であったのとは大違いです。その点認識の上で進歩があり、若手研究者は頼もしいかぎりです。

 もう一つ大切なことは、地域にとって史料が大切で、保存し公開するという考え方を、どうやって普及していくのかという点です。日本社会では、史料保存機関(アーカイブス)の普及が立ち遅れていますが、地域のアーカイブズが必要であることを、学校教育を通して次世代の常識にしていくことが必要ではないでしょうか。私の勤務する学習院大学では、総合基礎科目(旧一般教養)の一つとして「記録保存と現代−世界と日本のアーカイブズ」という授業科目を、1996年度から開設しました。世界と日本の文書館(アーカイブズ)の現状や、史料保存の歴史、あるいは企業アーカイブズ、大学アーカイブズなどについて、総合講義を行なっています。繰り返しますが、歴史教育の問題として、史料保存を考えていく必要があると考えます。

■辰田芳雄(岡山朝日高校)

 史料救出ご苦労様でした。史料についての歴史学者と市民とのズレの議論を聞いて、歴史を担当する教育者の責任という観点が必要なのかもしれないと思った。地域の史料を利用した授業の組立が行なわれれば、「ズレ」がある程度解消されるかもしれない。その際教育者も歴史学者でなければならないし、歴史学者も教育者にならなければならない。救出された史料は、教育の場に返されれば「ズレ」の解決の一歩となる。

■田中淳一郎(山城郷土資料館)

 阪神大震災の場合、災害後の活動であった。他地域への展開を考えるとき、震災の前に何をするのかが重要だと思う。東京・東海など大地震が予想される地域において、平常時に歴史学徒として、どういうボランティア活動ができるのか考えてほしい。日常から、自治体内部の文化財担当者や資料保存機関との接触を増やすことに期待したい。

 資料保存の責任を行政にあるとする議論は、行政の中にいる立場として、つらいところがあります。歴史資料保存とか地域復興とかに「住民の責任」という視点を入れていかないと、永続的な資料保存運動にならない様な気がします。行政が行なうということは、税金を使うということなのですから。

■寺田匡宏(大阪大学大学院)

 大会でも広川禎秀氏が発言していたが、歴史学において震災そのものをどう扱うかという問題があると思う。これまでは、震災における歴史学の役割として、史料保存や歴史意識の問題を扱ってきたが、今後は、震災そのものをどのように検証するのか、という問題に、取り組む必要があるのではないだろうか。また個人的には、史料ネットの進めてきた史料保存活動と、市民の歴史意識の接点である震災の体験記録運動に関心があり、これをどう捉えていくか考えていきたいと思っている。

 どちらかというと開催した側の立場なので、感想としては適切ではないかもしれないが、時間が足りなかったというのが正直な感想である。議論の方向として「なぜネットの活動が可能だったか」という問題に焦点があたり、深めていこうとした時に時間切れになったのは返す返すも残念。他日を期しても、もう史料ネットに関する議論は、同じ参加人数と同じ“期待感”では出来ないと思うが、是非議論を深める場を設定する必要があるのではないか。このアンケートがその一つになればと思う。

■萩本 稔

 “ズレ”が意識されたことを講演者3名とも強調しておられる。その“ズレ”を埋める具体的方策が出てこないのは、ポイントを欠くのではないでしょうか。学者、研究者、学会の方々は、“生活者”が理解できる言葉で、直接、根気よく呼びかけてください。マスコミ、自治体、公共団体、学校、公開講座を利用するなどして。

 討論で問題提起された“ズレ”を埋める方策を主として論ずるべきが、ほとんどなかったという印象で残念だった。日本史研究会としてこれからどうするんだ、という視点が主題となるべきだが、それが無いのは背景を欠く会合だったと思います。不満足です。“ズレ”を埋めるには、このような会合に一般生活者の参加を求めるべきです。一般生活者の聴講に1500円要求することがそもそも“ズレ”ていると思います。

■福島幸宏(京都府立大学大学院)

 研究者と住民の意識のずれの問題については議論が深まらず残念でした。もし研究者側に大きな責任があるとすれば、各地の歴史民俗資料館の展示の方法に問題があるのではないでしょうか。文書を中心とした地域の特質がうまく展示しきれてない様に感じられるのですが。

■古川武志(佛教大学)

 保存ということについて、我々研究者にとっての目的としては、公開のための保存ということになると思う(大国氏の議論の中の言葉を借りれば、「現地利用主義」も含めて)。つまり、歴史研究の為の保存ということになると思う。しかし、全ての保存をそれで考えてよいかという事、つまり公開という点についての議論もあってもよかったのではないだろうか。

■外池 昇(調布学園女子短大)

 「救出に際して将来の研究利用や公的機関への寄託等の条件を一切付さない」(藤田氏のプリントより)という姿勢を貫かれたことが、史料ネットの活動が広く理解され、支持された基礎となったのではないかと考えました。また「市寄託をやめ、地域の寺院に文書館を設立する構想」(大国氏プリントより)があるというお話しでしたが、これも是非実現するように祈っております。但し、本日のご報告を伺っておりますと、もっともっと具体的な事例を聞かせて頂きたかったという感想をもってしまいます。史料ネットの活動途中での、史料救出に際しての組織面・経済面・技術面・法律面等の具体的課題を、生に近い形で示して頂きたかったと思います。どの地域に生活していても、いずれ史料救出は真正面から取り組まなければならないのです。そのための備えのために、史料ネットの皆さんの活動を継続して注目したいと存じております。

■保立道久(東大史料編纂所)

 新しい問題に取り組まれ、本当に大変だったのではないかというのが感想です。藤田報告にあった運動の諸原則、特に「自治体を飛び越した活動はしない」という原則が、印象的でした。史料の救出という条件の中では、自治体批判をすることは極めて限定することになると思います。行政批判をせざるを得ない条件の運動が多くならざるを得ない日本の社会の中で、必要でかつ画期的なスタイルのものだったと思います。

 大国さんの文書保存運動のサーヴェイを興味深く思いました。アーキビスト運動と近世・近代・現代の学界の関係は、中世からみると不審に思える部分があります。これはおそらく、とりまく条件が困難にしているのだろうと思いますが、状況を整理することは重要と思います。

■堀 純一郎(田辺市史編さん室)

 毎日の活動は大変だろうなあ、と考え、敬服しています。ただ、現実にどのような日常活動が行われているのかという点については、「史料ネットNEWS LETTER」やシンポ記録集、今回の報告等で見聞きさせて頂いているのですが、今一つピンときていない部分があります。どんなところが、と尋ねられても、本人自身未だよく分かっていないので困るのですが、一番大きいのは、史料所蔵者のプライバシーと関わる部分ではないかと考えています。無いものねだりかもしれず、申し訳ありませんが、更に広報活動を続けられることをお願いいたします。

 地域密着主義は素晴らしいことだし、重要と思われるだが、地域に保存されている史料が、その地域と密接に関係しているものばかりとは限らない。人とモノとしての歴史資料=文献は移動するもので、現実には人に密着した形で他の地域に移動してしまった史料も存在する。もとより離れてしまっては無価値になる、というような極論ではないと思うのだが、視野に入れておいて欲しいと思う。

■森下 徹(大阪市立大学大学院)

 最近は活動に参加できておらず、申し訳なく思っています。しかし、初期〜中期の活動に参加できたことは、自らの「研究姿勢」「問題意識」「人的ネットワーク」にとって、大きなプラスとなった。問題は、それをいかに自らの研究(≒論文、叙述、方法、理論)に生かせるか、自らの活動(史料保存運動やアルバイトでの史料整理、自治体史編さん、尼崎聞き取り研究会etc)に生かせるかである。そこでつめて考えたいことは「戦後資料保存運動の負の遺産」(大国報告)だけでなく、「正の遺産」はどこにあったのか、両者の関係はどのようなものだったのかにある。また「研究者」と「生活者・市民」との意識のズレは問題だが、その一方で多少「ズレ」があって当然とも思える。その「緊張関係」を考えてみたい。

 日本史研究会大会でこうした「特設部会」が設けられたことは、一つの画期的なことと後々評価されるであろう。果たして参加者は「多かった」のか「少なかった」のか、今は分からない。塚田孝氏、山本幸俊氏、鈴木良氏の発言は、重要な指摘だと思った。つまり「正の遺産」をどう評価するのか、また、研究=学問的成果によって、勝負できるか。やや「負の遺産」「ギャップ」にのみ、関心が集中してしまったのかもしれないと思う(これまでのネット及び自らの考えが...)。

■山本幸俊(新潟県立文書館)

 ここ一年余りの史料ネットの活動の中から発言されてくる言葉や文章に、多くを学ばせてもらいました。とりわけ指摘されるように、歴史学の在り方が、これほど実感的に問い直されていることは思いもよらず、何より時機を得ています。歴史学界全体の共有認識に広がって欲しい限りです。歴史研究者は「史料を大事」という気持ちをみんな持っていますが、一般論から多くの方は出ていないように思います。震災以外にも、史料保存の現状は全国的に厳しいものがあります。歴史研究者は、自分の研究テーマとは別でも、史料保存活動に一般論から一歩踏み出すべきで、その行動が「状況」を変えられることを、ネットの活動が示してくれました。歴史研究者みんなが具体的に(市民とともに)動き出せば、市民が変わり、市民が変われば行政が変わります。ネットもこれまで市民講座など市民との関わりを重視してきましたが、今回のように歴史研究者への呼びかけや議論の場を設定していくようにしたらと思います。歴史研究者の共有認識は、思ったより広がっていないのではないでしょうか。

 議論の場が設けられ、議論する方向性も見え始めた入り口にさしかかったと思います。話すべき問題が大きく、本質的なこと故、多くの時間と段階が必要なように思いました。司会者が整理されて出された問題に近づくためにも、今後とも継続した討論の場をもっていただきたいと強く感じました。討論の中で出てくる色々な意見を整理し、方向を示していただけることを今後とも期待します。

■匿名希望

 地域住民との感覚のズレは本当に埋まるのか? 例えば、古文書を読む会などは、資料群によっては特異性だけが強調されすぎないか。在野のアーキビストを単なる郷土史家にしてしまう可能性を秘めてはいないか。

関西という地域の特異性はないか? 同一の方向性で全国的な活動としての展開が可能であるのか? 例えば、文化財や資(史)料は京都や関西、江戸や地方の城下町のもので、そうでない村でしかなかった所にはそういったものはないという意識があるのでは。

史料ネットが撤退した後でも在野で活動は継続されるのか? 郷土史家的人物によって引きずられてゆくことはないのか。

 史料保存問題の難しさをあらためて実感。地域と資(史)料は本当につながっていくのか。利用と保存の間、意識はどうなのか。利用と保存をどう共存させていくのか。専門職、研究者とのつながりを持たない行政とのからみは。

■匿名希望

 史料ネットあるいは歴史学に関わる人と「行政」との関係について、両者を対立させる発想からは、何の建設的関係も生まれないと思います。歴史認識のギャップを埋める対象は、市民だけでなくそれを包摂する行政も含まれるものと思います。それは、自力のある組織、組織内に強力な影響力がある史料保存あるいは編さん組織は、はっきりいって数えた方が早い、あるいは皆無に等しいという現実にかんがみて言えることです。この悲しい現状を踏まえた上での行動が、今こそ求められているといえないでしょうか。行政の責任放棄との発言に、さみしさを感じたのは私一人ではなかったと思います。無理解な組織・担当者が数多くいるであろうことは、十分推測できます。そのことを踏まえた上で、時々に担当者が異動したり、行政の対応が変化することがあったとしても、変わらず史料保存の必要性を歴史学という専門的な立場をもって、継続して訴え続けていくことが可能なのが学者・研究者の皆さんなのではないでしょうか?

 そういうわけで、行政に携わっている人間として非常に残念なのは、研究者との対立・対置関係の中に置かれる行政という構図です。行政は、史料ネットの皆さんにとって敵なのでしょうか? 会場に集まっておられた方の大半は、多かれ少なかれ、行政に何らかの関係をもっておられるのではないでしょうか? 市民への歴史意識の喚起にかける情熱と行動は、少なくとも同様・同量に行政にも振り当てられれべきではないでしょうか。そう考えることは、行政側の、むしのいい甘えなのでしょうか?

 行政として史料保存を位置付ける責務があること。そして、一般市民が市民として史料保存活動を行い、行政に対してもその必要性を提示していくことはあって然るべきでしょう。それと同様に歴史学者・研究者が、研究者としてしか出来ない見地から、行政組織内に着実に発言力を増していく、そういう地道で目立たない活動が何十年先に、史料保存を当然のこととして位置付ける組織の林立として花開くのではないでしょうか。そういう、両側からギャップを埋める活動の可能性はないのでしょうか?

 史料ネットが意図されている市民への働きかけが、住民運動としての史料保存だけであるならば、本日発表された趣旨で意は通じるのでしょう。それも、非常に重要なことだと思います。ただ、まわりまわって最終的に行政に立ち帰っていく本質の問題であるならば、今のうちから、正面から着実に行政に影響力を高めていく行動を起こしておく必要があると思うのです。そうでなければ、史料ネットの活動は、行政不信を抱えたまま袋小路に入り、抜け出る道を失ってしまうと考えざるを得ないのです。

 発表者の皆さんは、地域での着実な実践をなさっている方だと認識していますので、本日の論点を際立たせる必要上、大げさに区別なさったのだとは思いつつ、気にかかりましたので、未消化ながら一文を寄せさせていただきました。

■匿名希望

 資金づくりのカンパは、研究会大会等での呼びかけだけでと感じます。恐らくカンパだけでは大きな不足とは思いますが、会員に寄付を募るよりも、会場で呼びかけて頂いた方が、少額でも出しやすいのですが。

 市民講座を阪神地区だけでなく京阪間でも催して頂きたい。阪神間を中心に各研究会でも討論会を行い、支援の輪を広げてゆけばと思います。但し、市民講座も継続し、研究者に限らず幅広く人々に呼びかけてほしいと考えています。

 史料館が中心となり、研究者の参加が多かったことが運動の継続につながったと思いますが、地域性もあると思います。歴史学の研究に対して人々が理解を示し、また一般の人々が進んで参加する思想があったのではないでしょうか。また行政に対しては、金銭上の問題があるでしょうが、例えば公民館等での講座開催と市民参加の考え方を元にして働きかける、つまり場所の提供を求めてはと思います。少々議論がかみ合わずに終わってしまったと思うので、これからも討論会を開いて欲しいものです。

■匿名希望

 歴史学会において、やはり「史料」は大変重要なものなので、研究者が史料を追究していくことは基本的態度である。住民への還元について、住民がどのような要求を持っているのか、つまり住民がいかに史料に興味を持ち、何を望んでいるのかに関わってくるので、研究者の自己満足のみで終わってはならない問題である。

■匿名希望

 私は、史料ネットの活動過程でなかば強制的に活動への参加が要求された例をいくつか知らされている。これは、そもそもボランティア団体として発足した史料ネット内部で十分な共通認識ができておらず、個々人のなかで史料ネットの位置付けがバラバラになっていた、ということを表している。もちろん私は史料ネットの設立意義を否定するのではなく、何よりも歴史学を地域住民とともに考えていく上でも、極めて有益なものであることを認めている。しかし、だからこそ改めて史料ネット内部の共通認識を再確認し、固め、以後の活動を持続的かつ強固なものとしていくことが必要であると考える。

 

■文書等所蔵施設の被害調査まとまる!!

 本ニュース第6号でもお知らせしていましたが、文化庁が取り組む科学研究「美術工芸品等の防災に関する調査研究」の一環として取り組まれていた「阪神・淡路大震災における文書等所蔵施設被害調査アンケート実施結果報告書」が、このほどようやくまとめられました。

 この調査は、震災被害の実態をもとに、文書館をはじめとする文書等所蔵施設固有の防災対策を考えていこうというもので、上記科学研究の研究分担者である神戸大・奥村弘氏の指導のもと、西宮市行政資料室嘱託の豊田美香氏・福重綾子氏が調査を行ない報告をまとめたものです。

報告書では、文書等所蔵機関23施設の震災被害について、アンケートおよび聞き取り調査、実地調査にもとづいて詳しく分析・紹介されており、それをもとに文書等所蔵施設の防災対策のポイントを提言しています。なかでも、ともすれば収蔵史料の防災対策に意識が偏りがちな傾向に対して、施設内の人員、それも利用者と職員の両方が大規模災害時には大きな危険にさらされる恐れがあるが、そのことがかならずしも施設設計や設備上は考慮に入れられていないこと、災害復旧時の財政制度上の制約などから、危険性のある従来の設備をそのまま復旧しているケースがほとんどであることなど、実例にもとづいた説得力のある指摘と提言を行なっています。

 この報告書は、文化庁による上記の科学研究全体の報告書にも収録され、提言の論点も盛り込まれていく予定です。また、防災委員会を設けて文書館施設の防災対策を検討している全史料協や、同近畿部会の場でも活用すべく、関係者の間で協議中です。

 

■文献情報

 近刊の文献に掲載された、史料ネット関連の論文、報告等を紹介します。

 

佐々木和子 「第2回震災資料の保存と編さんに関する研究会」参加記

    (昨年10月に21世紀ひょうご創造協会との共催により神戸大学で開催した研究会の参加     報告です)

岩城卓二 市民とともにつくる尼崎市史とは?−「歴史と文化を考えるシンポジウム」参加記−

    (昨年10月に尼崎市との共催により開催した第6回市民講座の参加報告です)

 いずれも『地方史研究』265号(第47巻第1号、1997年2月、地方史研究協議会発行)に掲載
 

村上友子  第2回「震災資料の保存と編さんに関する研究会」の記録

  『歴史と神戸』200号(第36巻第1号、1997年2月、神戸史学会発行)に掲載

 

◇今回は、ネットへの声の特集号をお届けしました。読者の皆さんのご感想はいかがでしょうか。 今後とも、ニュースレターの感想や史料ネットへのご意見をどしどしお寄せください。

◆4月には史料ネットも新たな年度を迎えます。新年度の体制・方針等は次号でお知らせする予 定です。次々と新たな課題が出現し、限られた人員で対処するのにパンク状態の史料ネット。 皆さんのご支援をお願いします。

◇このニュースレターの郵送購読の申込みを受け付けています。ご希望の方は、ネットセンターまでお問い合わせください。

 
 
史料ネット NEWS LETTER No.8     1997.3.19(水)

編集・発行 歴史資料ネットワーク 〒657 神戸市灘区六甲台町1-1

        神戸大学文学部内 TEL.078-881-1212(内線で文学部内史料

        ネット呼出) FAX.078-803-0486

         e-mail yfujita@.lit.kobe-u.ac.jp